夏への扉(終)
うるさいほどの蝉時雨。
空の彼方に鎮座する、積乱雲。
じりじりと肌を焼く、陽の光。
涼を感じさせる、風鈴の音。
確かに夏を感じさせる全てが整っているのに、
俺には、まだ、夏は来ない。
少し前の、梅雨月。
蛍たちの、終の棲家で始まりの場所。
重なる葉の下に隠れて、密やかに続く彼らの営み。
声はなく、音もなく、ただ、僅かな光を、鼓動のように、鳴らして。
その気配に2人、息を潜め、耳を澄ませていた。
「シカマル、感じるか?」
「ああ。もうすぐだな。」
それが、夏への扉が開く音。
『夏への扉』
月も風もない夜。
俺達の、姿も気配も隠してくれるそんな夜に、
最も幽玄な情景を目にすることが出来る。
蛍の、美しい求愛の舞。朧げな光が映し出す刹那。
里の違うテマリと俺の、限られた時間の逢瀬と蛍の乱舞。
似たものを感じていたのか、俺達は、好んで足を運んだ。
「私も、一度くらい身を焦がしてもいいだろうか?」
初めて蛍を目にしたテマリが、まるで俺の内側に、同じものを見たようにそう言って、
背の扇子をそっと足元に置いた。
「いいんじゃ、ねぇの?」
本当は、返事をするまでもなかった。
俺は、ずっとこのヒトを求めていたのだから。
追いかけて、追いかけて、やっとその気になった彼女を、抱いた。
初めての交わりだった。
夢の中の出来事のようで、ほとんど何も覚えていない。
充足感と、腕にあるテマリの存在だけが、強く残っていた。
それから、会うたびに、尽きることの無い欲望を、抑えきれない衝動を、
無理やり満たそうとするかのように、テマリを求めた。
端から見るものがいれば、まるで刹那的快楽を、ただむさぼるよな、様だったのかもしれない。
けれど、俺は確実にテマリに惹かれていたし、愛していた。
ただ、それを言葉に出来なかっただけだ。
都合のいい、言い訳にしか聞こえないかもしれないが、
言葉にしなくても、肌を重ねて、伝わっているはずだと、思っていた。
互いに一糸纏わぬ姿で、里の証すら投げ捨てて、
身も心も溶けあって、1つになっていく。
そうして、俺は、テマリをわかったつもりになっていた。
・・・そう、思いたかった。
「このまま・・・逝きたい。」
幾度目の逢瀬だったか。
吐息にまぎれて、テマリがそんなことを口にした。
最初は何を言われているのかわからなかった。
絶え間なく押し寄せる快感の波に、高ぶる脳が言わせているのかと思っていた。
けれど、互いに達しようとするその間際、
「このまま死ねたら・・・。」
テマリが続けた言葉に、耳を疑い、朦朧としていた意識の中、目をやった。
いつもはその瞬間を、瞳を閉じて迎えているはずの彼女が、俺を見上げている。
一瞬、動きを止めた俺に、けれど、テマリはキツくしがみつくと、
「やめ・・るな。」
耳元で、掠れる声が囁いた。
激しく突き上げてくる自分の雄性には逆らえず、そのまま高みに向かい、果てた。
直後、急速に訪れる脱力感に引き込まれる前に、彼女に確かめようとした。
あの時、何故、あんなことを・・・。
荒い息の隙間から、声を出した。
「テマリ・・・どうして?」
闇に浮かんだ彼女の横顔からは、なんの感情も読み取れない。
ただ、空をじっと見上げている。
聞こえてなかったのだろうか?
もう一度、問おうかと思っていると、ゆっくりとこちらを向いて、
「興奮してたんだ。」
照れ隠しのような笑みを浮かべると、あとはいつものように俺の胸に顔を埋める彼女に、
それ以上、聴く事ができなかった。
あの時、強引にでも聴いていれば、よかったのかもしれない。
そうしていれば・・・。
何故、『死』を求めるようなことを口にしたのか。
あれは確かに、興奮状態が言わせた声音じゃなかった。
反面、安堵したのも事実だった。
テマリが何も言わなかったことに・・・。
彼女が、もし、あの時何かを口にしていたら、俺にはそれに応える自信が、なかった。
それが、怖くて。
けれど、やはり、俺のどこかに、何かが引っ掛かっていた。
それまで、はっきりと見えていたはずのテマリの輪郭が、少しずつ、ぼやけていくような気がした。
まるで、闇に融けていくような、あの、蛍の光のように。
『恋に溺れている間は、人は、相手の横顔しか見ないものさ。』
『横顔?』
『あんただってそうだったろ?自分の見たいと思うそのヒトしか、見なかった。』
『・・・。』
『正面で向き合うのは怖いからね。』
場末の飲み屋で、店の女に言われた言葉が、耳によみがえる。
同僚たちが、ひときしり騒いだ後、仮初の相手と一夜を楽しむ為に店を出た。
ただ1人残った俺は、酔いがそんな気分にさせたのか、
それとももう顔を合わせる相手ではないという気安さなのか、
いつの間にか思い出語りをしていた。
女は興味深く耳を傾け、黙って聴いていたが、『死』のくだりの部分で、口をはさんだ。
『そこまで言わせる男なら、抱かれてみたい気はするけれど・・・。』
女の言葉は続いた。
『そのヒトは、あんたを愛していたんだね。』
『なんで、そんなことがわかる?』
俺の言葉に、女は肩をすくめた。
『あたしは女を売りにしてるからさ。
・・・そのヒトは、正面のあんたも見ていたんだろう。
そして、気づいちまった。』
女の言葉に、心臓が弾かれた。
『そのヒトが、どれだけのものを背負っていたのかわからないけど、
あんたとの逢瀬に、生と死を、感じずにはいられなかった。
あんたは・・・女の性に、触れちまったんだね。』
『・・・俺は女じゃねぇから・・わからねぇよ。』
激しくなる鼓動を、隠すように投げやりにそう返したが、居ても立ってもいられなくなった。
女の言葉を理解できた訳じゃない。
けれど、核心に触れられたような気がして、無性にあの場所に、行きたくなった。
行かなければ、ならない気がした。
蛍たちの、終の棲家で始まりの場所。
本当に、あの女が言うように、テマリは俺を愛していたのだろうか。
今夜も、月も風もない夜なのに、
すでに夏を迎えてしまった木ノ葉は、
彼らの宴も、終わった後。
そこには、静寂と闇しかない。
『こんなに綺麗な水の中で育つから、彼らの姿は、こんなに美しく映るのだろうか。』
あの夜の、 謎解きのようなテマリの言葉。
俺の止める声も聴かず、彼女は小川に入っていった。
『わたしが、足を踏み入れたら、穢れてしまうかな。』
そう呟いて。
彼女の周りを舞う、蛍たちの朧げな光だけが、テマリの姿をぼんやりと映し出す。
目を凝らせば、テマリが、水を両手ですくい、頭上から零している。
まるでその身を清めるように・・・。
『・・・テマリ、何をしてる?』
蛍たちの放つ光と見間違うような瞳が、こちらを見た。
『シカマル。夏の入り口を探しに行かないか?』
返事を待たずに、テマリはその奥の闇へと消えていく。
誘われるように小川を渡り、その向こうの茂みへたどりつくと、
テマリは、静かに葉を捲り続けていた。
雌の蛍を探しているのだと、すぐにわかった。
しばらくして、その両手には、指の隙間から僅かに漏れる淡い光を点滅させるものが、
捕まえられていた。
『どうするんだ?』
俺の言葉なんか、届いてないようにテマリは、重なる葉の上に、『彼女』を乗せた。
『お前も・・・こんなところでじっとしているだけじゃ、気づいてもらえないぞ。』
『そういうのは、余計なお節介じゃ、ねぇの?』
『そう・・・かもな。』
ただ、そう呟いて。
その日が最後だった。
テマリといたのも、蛍を見たのも。
夏への扉に触れたのも。
あの時、彼女は何を伝えたかったんだろう。
俺は、何か大切なことを見逃していたんじゃないだろうか?
時期はずれの蛍が、目の前をよぎった。
ふらふらと光を揺らして、俺の手に止まる。
「お前も、『彼女』を見つけられなかったのか?」
俺の問いかけに、答えるように、彼の尾尻が点滅する。
そうして、またゆるゆると羽を揺らして、闇へと消えていく。
「お前も、俺と、同じだな。」
もう、お前の季節はとうに過ぎているのに。
木ノ葉は、夏の盛りを迎えているのに。
見つけられない、夏への扉を探して、彷徨い続けてる。
「MOJITO」りく様より1000打記念リクエストSS第3弾
今思うと、一度のリクエストで3作品もいただいてしまいました。。。
りく様には何か御礼をせねばなりませんね!本当に、多謝!!