溺れる魚




暗いな。

新月の夜の底で、黒髪の少年は思った。

下げた提灯はかろうじて足下を照らしていたが、
どこまでも広がるように思える闇の中で、
それは死にかけた蛍と同程度の存在感でしかない。


森は深く、ただ深く。


生い茂る木々の向こうにぼんやりと覗いているのは、
自分が今、その足先を向けている里の明かり。
それでも不規則に並ぶ木々のシルエットは、
背後の闇と変わらぬ黒に染まっている。


終わりの見えない夜の森は、まるで深い海のようだ。
ならば彼は、縄張りの外を群れから離れて泳ぐ魚か。


闇は深く、どこまでも深く。


こんな夜道は決して安全でないことを承知していても、
明日の午前中から予定されている任務のことを考えれば、
今日中に里に到着しておきたかった。

……もっとも暗闇を恐れるような忍がいるはずもない、のだが。

重さのある闇に囲まれたシカマルは、
無意識のまま提灯を軽く左右に振った。

それに併せるように影も揺れる。
いつも彼とともに進む影は、
頼りない明かりの中でも、足下で揺れている。

彼は思わず安堵のため息を漏らす。
常にその武器とともに往くことが当然の日々の中で、
こんな暗闇だけが、彼にどうしようもない不安を与えるのだ。

深い森の、闇の底で。





突然に風が巻いた。いや、真上から……
ありえない角度で、吹いた。

提灯の中にある蝋燭の炎が、さして抵抗もせずに絶える。

影は同時に、するりと闇の中に溶け。

…………背後に動くものの気配を感じた時には既に、
シカマルの首筋に息がかかるほどの距離で襲撃者は立ち、
彼の背に、鈍く冷たい感触がぎゅっと押し付けられた。

ばさり。彼の手にあった、もはや灯のない提灯が地に落ちる。
そして耳朶を撫でる囁き。

「後ろ、とった」

その囁きはそのまま背から足先までを、一気に駆け下る。
いや、それはただの錯覚で……背筋をくだり降りたのは、
突然にこんな場所で一人、命の綱を握られてしまった恐怖か。

――――くそっ、誰に?

そう反射的に思ったが、しかし、彼には心当たりがあった。
襲撃者が刃を繰り出さない確信を胸に、そのまま前に跳ぶ。

肩甲骨の間に押し付けられた鈍い感覚は、すぐに身体を離れる。
愉悦を含んだ笑い声が、シカマルの真後ろで響く。

「…………お前、そんな簡単に殺されても、いいのか?」

背後の襲撃者は一歩、後退する。
同時に、シカマルもそちらを仰ぎ見た。
まだ闇に慣れない目に映るのはシルエットのみではあったが
それでも彼は記憶していた。何よりもはっきりと、その声を。

「……なにやってんだ?」

隙を見せたことへの悔しさが滲む表情は、相手にはわからないか。
それに関してだけなら、この新月の夜にも感謝したい。
――――いや、声音からこちらの表情を読まれているとしたら、
いかに深い闇といえ、そこにどれだけの意味があろう?

先ほどの冗談ともつかない台詞の後は、
そのまま沈黙を保っている影に向けて、シカマルは言葉を続ける。

「つーか、なんでこんなとこ一人でほっつき歩いてんだよ?
こんな遅い時間に、怪しまれっぞ?」

「あたしもあんたの里に向かうとこさ。公用で。
火影さまとお話することがあってね」

影はやっと口を開いたらしい。凛とした声が響く。
次第に輪郭以上の姿が視認できるようになってくる。

「草蛙の紐を修理してたところで、あんたの姿が遠くに見えたから。
こっちに気付いてないみたいだったからさ、追っかけてきたんだ」

四つに結んだ髪。意外に細い首と、すらりとした肢体。
風の国から砂漠と森を超えてきた少女は、きっと笑っている。

「…………気配、消してかよ?」
「忍の基本だろう」
「で、オレをいきなり襲う真意は」
「リベンジ」

砂のテマリはこともなげにそう言うと、身体を屈め、
先ほどシカマルが取り落とした提灯を拾い上げた。
ほら、と彼のほうに柄を差し出しながら、言ってくる。

「やっぱ負けっぱなしじゃ悔しいからさ」
「それでいちいち気配消してここまで来るか普通」
「別に。偶然見つけたついでに、ね」

機嫌よさげにそう言うテマリから提灯を受け取ると、
シカマルはため息とともに言葉を漏らした。

「まだ試合のこと、根に持ってんのかよ?」
「当然だ」
「ありゃお前が勝ったんじゃねーか」
「あんなギブアップで納得いくと思ってるのか?」

どこまでも真直ぐな解答だけが返ってきた。
問答の継続をあきらめたシカマルは、懐からマッチ箱を取り出し
途切れた炎をなんとか闇の中に呼び戻そうと試みる。

「しかし隙だらけだぞ、お前。いくら里の近くだからって」

それを眺めながら、テマリはくっくっと忍び笑いを漏らす。

「影使いが影の中で殺られるなんて、魚が溺れて死ぬようなもんだ」
「うるせーな」

シカマルは半眼でぼやくと、手の中の作業に集中を戻した。
微風の中で頼りなく踊るマッチの炎を、蝋燭の先端に移す。
灯明が彼の背後に見慣れた影を映し出すと、
落とした武器を取り戻した時と同じ安堵感が、その両肩を抱く。

同時に、すぐ正面に立つ女の表情がはっきりと浮かび上がる。
揺れる炎を映した瞳が、彼をじっと覗き込んでいる。

「で、用事はそんだけかよ?」

――――シカマルは思わず、ぷい、と目を逸らしてしまった。
そんな彼の様子を見て、テマリはさらに愉快そうに笑うと

「ああ、それだけ」

近くの根元に置いてあった荷物を背負い、
もう行くぞ、とでも言うように里の方角に顎を向けた。
自分の提灯も持たないまま、すたすたと歩き出す。

「おい、ちょっと……」

灯りを手に、慌てて彼女の背を追うシカマル。
テマリの隣に並び、ささやかな抵抗か、
わざと彼女に聞こえるように言ってやる。

「……なんつーか、建設的な時間の使い方ってもん考えろよ……」
「いいだろ、最近は実戦の機会が減ってね。
たまにはウチの忍以外を相手にしないと腕も鈍りそうだし」

だがテマリのほうはといえば、まったく堪える様子もない。
むしろ、いいことを思いついたといわんばかりにこう言うのだ。

「滞在の間も、たまに襲ってやる。修行だと思いな」
「ったく……めんどくせーな……」
「何か文句でも?」
「……ないです」
「よし」

満足気な頷きを合図に、しばらくの間は沈黙が続く。が、

「あ」

テマリが声を上げる。隣を見やると、えらく真剣そうな表情をしている。
まるでそれがとても大事なことのように、だけど、楽しそうに。

「安心しろ、さすがに寝込みは襲わないから」
「……そりゃどーも」

里の灯りがだんだん近くなり、二人の足は自然と早まる。
新月の夜の海底で。
自由自在に泳ぎ回っているように見える魚たちも、
あたたかい光の先に、戻り、そして進む場所があるのだから。

泳ぎ、泳ぎ、彷徨う魚。闇の海を往く忍。

シカマルは闇の中で、隣を往くテマリの横顔をちらりと眺める。
襲撃の際に跳ね上がった鼓動は平常に戻っていたが、
なんだか喉の下に異物が詰まったような違和感の、
その正体だけは、ちっともわからないままだ。

何か口にしようとしてやはり思い直し、
溺れるような息苦しさを抱えたまま、シカマルは歩を進めた。







胸に疼く違和感はいまだ蛍のように儚く、
けれど人を溺れさせる感情の、それは最初の兆候。

いずれ深く、闇のように彼を襲うその心を、
世では……恋だとか、そんな風に呼ぶのだろう。



あとがき

露希さまより旧ブログサイト1ヶ月記念リクエストで「溺れる魚」。
難しくも楽しんだリクエストです!素敵なお題に感謝。
*露希さまのみお持ち帰り可です!