奥の手




「うーん、まあ、15手以内で王手だな」

奴が動かす飛車の射程内に入った銀と角、
その合間で逡巡するあたしの指先。

待ちくたびれたようなシカマルの声が、将棋盤の向こうから届く。
腕を正面で組んでいるのが見える。そして盤面の戦況を眺めやる視線。

……余裕ぶりやがって。

そんな心のうちはおくびにも見せずに、
あたしは「銀」とその背に記された駒を諦める。

長年にわたって吸い込んだ湿気のせいか、随分と変色した盤の上で、
やはり使い込まれた駒が、ぱちり、と乾いた音を立てた。
その音の響きは、あたしに午後の静けさを教える。

身体を沈めて隙を伺う猫のような俊敏さで、飛車があたしの銀を襲った。

……15手か。
あながち間違いでもないのだろう。

奈良家の縁側で将棋盤を前に睨めっこ。
もはや休暇の風物詩のようなものだけれど、
思い返せば勝ったためしは殆どない。

「お前、将棋だけは強いな」
「だけ、は余計だっつの」

なんとなく漏らした呟きを拾い上げ、シカマルは不満げな声をあげた。

「だいいち、親父のほうが強ぇぜ」
「ま、頭の体操にはちょうどいい趣味だと思うけどさ。
ゲームの基本はそもそも、深読みのし合いだしね」

しばし考えてから、あたしは牽制のための歩を前方に進める。

あたしも決して弱いほうではないはずだけど、さすがに
5、6手以上先を考える根性は持ち合わせていないのだ。
駄目だとわかっていても、思わず攻めに出てしまい、そして負ける。
待ち伏せる敵の中に飛び来んでしまう。
実際の戦闘なら、むしろ奇襲が得意なんだけどな。

ふと、疑問が思い浮かんだ。
「お前、例えば……あたしが次に何するかって予想できるのか?」
「……あー、右の桂馬を」
「違うよ、将棋じゃなくて。
普通にさ、あたしの次の行動」

あたしの質問に、シカマルは呆れたような表情を浮かべた。

「あのな、まさかオレが先のことなら何でもわかると思ってねーよな」
「先読みは得意だろ。初めて戦ったときも」
「あれとこれとは違ぇだろ」

奴は姿勢を崩しながらそう言う。
組んでいた腕もほどき、ちょっと休憩な、と呟くと
ストレッチするように両腕を宙に伸ばしながら、

「行動を読む、って簡単に言うけどな。
まったく不可能だとは思わねぇけど、面倒くせぇっつーか」
「面倒くさがらなきゃ出来るって聞こえるけど?」

挑発されのたか、シカマルの眉がぴくりと動くのが見えた。

「……ヘっ。
んじゃ聞くけど、あの試合と今、何が違うか解るか?」
「そりゃ、場所も状況も何もかも」

シカマルは頷き、そして。

「ま、そうだな。じゃあ『どう』違うんだ?」

畳み掛けるように聞いてくる。

まったく、偉そうな講義口調だ。
こいつなんかに教えを請う理由もないが、たまには付き合ってやるか。
そう考え、盤上に向けていた集中を解いて庭を眺める。

見知らぬ誰かの頭が板塀の上に覗き、足早に通り過ぎていくのが見えた。
こじんまりとした庭園が、板塀と縁側の間に広がっている。

あたしは中忍試験の風景を頭の中に思い浮かべた。
屋内の試合場。壁はぐるりとあたしたちを包囲し、そして視線。
ああ、なるほど。

「あの時は、限定されてた」
「正解」

よくできました、と言いたげな表情を浮かべるシカマル。

「あん時に決定的だったのは、限定性だ。
相手があんた一人ってのは確定事項。伏兵も救援もありえない。
攻撃範囲に移動可能範囲が頭に入ってて、
なによりもあんたの試合を最初に見てたから、ある程度はパターンも予測できた」

シカマルは続きになっている居間のほうに目をやり。
壁に立てかけられたあたしの鉄扇を確認してから、続ける。

「条件になるものが少なけりゃ少ないほど、選択可能な手段も減るだろ。
そうなりゃ進む先も自ずから限定されてくるわけだ。
あれくらい予測できない要素が少ない戦闘なら将棋とほとんど一緒で、
戦略さえじっくり練れりゃ、少なくとも大負けするこたねぇ。
結局、必要な情報が頭に入ってるか、入ってないか。そこが勝負を分けんだよ」

そこまで言って一旦、言葉を切る。

「計算に入れる要素が少ない時は、ちょっと考えりゃ済むけど。
あんたが次に何するかってのを予想するために、
いったいどんだけの情報を頭にぶちこまなきゃなんねぇ?
ちっと面倒くさすぎだろ」

「それでも戦闘の時は簡単っていうけどさ、戦う相手次第だろう?
相手の性格まで把握できるわけじゃなし」
「いや、そうでもないぜ」

やはり姿勢を崩して講義に耳を傾けていたあたしの疑問に、
シカマルはちょっと考えてから答えた。

「戦ってる時は、だいたいどんな奴でもちょっとしたとこから分類できんだ。
普段どれっくらい掴みづらい性格した野郎でも、クナイ持たせりゃ単純になる」

目の前に座る男は、自分のこめかみのあたりを人差し指で軽く突つく。

「ここを使ってるか、使ってねぇか……ってな。
頭使う奴は極端に臆病か大胆だし、
あんま使わねぇ奴ならこっちの札にいちいち反応してくれるタイプだ。
後はその場その場の判断だから何とも言えねぇけど、大別すりゃその二つ」

そこまで言って、シカマルの動きが一瞬だけ止まった。
真剣勝負の時からは想像もつかない、
焦点をどこに合わせているのかさえ判別し難い双眸に、
……何かを思い出すような色が宿る。

その視線がふっと宙を泳いだかと思うと、

「あー、でも例外もいるわな」
「うずまきナルトか?」

誰のことを指しているのか、あたしにはすぐに解った。

「ああ、あいつは……なんつーか、
将棋盤ごとひっくり返しちまうような奴だし」

盤をひっくり返す、か。
奴が見せた、試合での無茶苦茶ぶりを思い出してみたら、
あたしにもいい考えが浮かんだ。

「じゃああたしも、今日はあいつに学ぶとするか」
「は?」

意味がわかっていないシカマルを尻目に、あたしは将棋盤の足に手を掛け。

「おいマジで……」

シカマルは反射的に盤を両手で押さえようとして。
そして気付いたようだけど、もう遅い。

「ん」

あたしの上半身が元の位置まで退いた後に残ったのは、
眼を大きく見開いて、ちょっと茫然としているような、
悔しさと恥ずかしさが微妙に入り交じる奴の表情。

将棋盤の上にあった指先が慌てて口元へと移動し、
つい一瞬前にあたしの唇が触れた場所を数度、撫でる。

それを盤の反対側から眺めるあたしは、

「今の、読めなかっただろ?」

そう言って笑ってやる。
勝ち誇った笑みに見えただろうな、と思う。

「そりゃルール違反だろ……」

憮然とした呟きだけが半開きの口から漏れ、午後の庭に転がり落ちた。



それから再開された盤上の勝負は――
言うまでもないが、あたしの大勝ちだった。


あとがき

一度書きたかった将棋問答。
いろいろうそくさい。