Clockwork Orange




夜更けの宿、いつもの部屋。いつもの男と二人、いつものように。
けれど、なにかが畳の上に転がる音があたしたちの動きを止めた。
帯が解けた弾みで、あたしの懐中時計が床に落ちたらしい。それを拾い上げたシカマルは文字盤を覗き込むと、あれ、と言うように眉をひそめた。
「ちゃんと定期的にゼンマイ巻けよ」
それだけ言うと懐中時計を机の上に置き、その手は再びあたしの任務服を脱がしにかかってくる。
(違う、止めたままにしてるんだ)
そう言いかけたが、黙ったままシカマルの手の動きに身体をまかせた。



任務だと言われれば、あたしはそれを遂行する。
個人的な考えを差し挟まず、何も持ち帰らないのが基本だ。それでも。
「今日は疲れた」
あたしたち姉弟の間では、誰かがそんな呟きを漏らせば意味するものは伝わる。そこには暗黙の了解がある。きっと弟たちは任務の内容を理解し、何も聞かずに部屋へと食事を運ぶだろう。
「また明日」
「ああ、おやすみ」
そして疲労が支配する身体を、寝床に横たえればいい。明日には忘れる。
でなければ、他愛もない会話でもして気を紛らわすか。
けれど任務については語らない。柔らかく、同時にとても固い人間の身体を壊す感触のことは、決して語られることはない。
クナイを握る手に伝わる手応えは、言葉にされないまま胸のうちに沈む。
それでもあたしたちは、まだマシなほうかもしれない。大規模戦闘や護衛の任務なら、愛用の大道具を使える。弟の砂も、からくり人形も、あたしの鉄扇も、いつまでも慣れない嫌な手応えから、すこしだけあたしたちを遠ざけてくれる。
「忍は善悪を判断するな。殺せと命じられたものを、殺せ」
昔、そう教わった。けれど頭ではわかっていても、感情は時にとても素直だ。
だから無意識のうちに心を止めている。
ずっと動いていない、あの懐中時計のように。



今日、あたしは人を殺した。木の葉への道の途中で。
返り血は浴びていない。だから、匂いはしないと思うけど。

あたしは木の葉への最短距離を往くために、鬱蒼とした森を抜けていた。
出立は遅かったが、同じペースを保てば夕刻には里に着くだろう。時折のぞく太陽の位置でだいたいの時間を計りながら、そんなことを考える。
木立の間から悲鳴らしきものを聞いたのは、その時だった。
「…………ったく!」
始めは無視しようか、とも思ったが、結局は足を向けずにいられない。舌打ちをして、そちらに走る。
声が聞こえた方角には、大木を背に身を縮めている行商人らしき男がいた。その男から数メートル離れて、黒頭巾の後ろ姿がふたつ。
(こんな昼間から、盗賊の類とはね)
あたしは手近な木の枝に飛び乗り、それを足場にまたさらに跳ぶと、そのまま商人と襲撃者らしき物たちの中間あたりに着地した。さらなる悲鳴を上げる小男を庇うように立ちはだかり、黒頭巾に向かって鉄扇を振るう。
「はっ!」
ごぅ、と風が唸り、黒頭巾はいちどきに後ろに退がる。
(吹き飛ばされた、という感じじゃないな。距離をとっただけか)
黒頭巾たちの姿を目で追うが、戦意を喪失しているような様子もなかった。
肌を裂く風のひとつもお見舞いすれば、普通の野盗程度なら泡を食って逃げ出すのだが。そうではないということは、おそらく。
「……どこかの、抜け忍だな?」
目の前には二人組。気配を探るが、他に隠れている者もいない。
広さのない森の中での接近戦となることを考え、あたしは懐から抜いたクナイを眼前に構える。腰を落とし、顔の前まで持ち上げた腕の奥から忍崩れの盗賊を睨みつけると、
「お前たちを殺す任務を受けてるわけじゃない。命が惜しければ、去れ」
出来る限り低い声で、そう告げる。
黒頭巾は返答のかわりに、やはり短刀を眼前にかざした。どうやら退くつもりもないらしい。くノ一ひとりと甘く見られたか。
「なんでまた、こんな面倒なことに……」
すっかり伝染ってしまった口癖をこっそり呟くと、あたしは即座に地を蹴った。

「……まったく、襲撃を自力でなんとかできる準備がないんだったら、こんな街道外れをのこのこ歩くもんじゃないよ」
下忍が多少マシになった程度の相手を片付けるのには、数分も要らなかった。
それでも緊張で固くなった肩の力を抜き、木の後ろで震えながら縮こまっている中年の行商人のほうを向きやる。
「で、あんた何処にいくんだ? 街道までなら送ってやるけど」
返事がない。怯えているのか。
そういえば、自分の名も名乗っていなかったな。
「あたしはテマリ、風の国の忍。公用で木の葉隠れの里に向かう途中だ。あんたを身ぐるみ剥がそうなんて思っちゃいないから安心しろ」
まだ腰が抜けている行商人は、あたしの額宛、顔、そしてまた額宛という順で視線を巡らせる。一瞬、ほっとしたような表情が浮かんだが、あたしの手の先にあるものを目にすると、その顔を再び強張らせた。
見れば、まだ酸化しきっていない赤黒い血が刃の先端から滴っている。
「ああ、こんなものは出しっ放しにするものじゃないな。すまない」
あたしは懐紙で刃にまとわりついた血を拭きとり、道具入れにしまう。
べとりとした、嫌な感触だった。



人を殺めた後、あたしは人の身体に触れたくなる。
あたたかく、壊れていない身体を触りたくなる。
「やだ……ぁッ」
壊されるように抱かれても、壊れない自分の身体を確かめたくなる。
「テマリ?」
いつになく乱れるあたしを訝ってか、シカマルが上から名前を呼ぶ。あたしは答えない。かわりに男の上半身にしがみついて、誘うように身体を密着させる。
久々に会った夜の交わりは、いつも例外なく激しい。
普段ならそれを辛く感じることもあるが、今日だけはそれが有難かった。
「……あ、ああ!」
痛いほどに最奥を突かれ、あたしはまた悲鳴を漏らす。
衝動と衝撃に、停止していた心が動き出す。

街道まで遠回りをしたせいで、木の葉の里に到着したのは夜更けだった。一応、本部には顔を出したものの、やはり火影との面会は翌朝だ。
シカマルは任務から戻っていた。だからこうして、邂逅を重ねることもできる。
「喉、乾かねえ?」
事が済んだ後、掛け布団にくるまっていたシカマルが思い出したように言った。
「確か、小袋の中にオレンジがある」
「あ、そいつでいいや」
荷物を置いてある方向を指差してやると、奴は身体も起こさないままに腕を伸ばし、あたしが細々とした物を放り込む携帯用の袋を引き寄せる。
「お前も食う?」
「いい、いらない」
シカマルの問いに、あたしは首を振る。隣でオレンジの皮を剥く音、そして強い柑橘系の香りが鼻孔をくすぐった。
疲労の底にこびりついた血の匂い洗い流すように、あたしはその香りだけを胸いっぱいに吸い込んだ。所詮、それが錯覚とわかってはいても。
心を止めているつもりでも、機械のようにはいかない。ゼンマイを巻かないだけで止まっていられる時計のようには。あたしは有機物だから。あのオレンジと同じように、強い力を受ければ簡単に潰れてひしゃげ、そして果汁の代わりに赤い血を流すのだから。
あたしの皮の下にあるのは、螺子と歯車ではなく、血と肉だ。
(まだ、感触が消えないな)
人を傷つける度に、自分の肉体の柔らかさを実感するのだ。
(正当防衛って理由があっても、殺しには変わりない……か)
あたしは布団から右腕を出して、自分の指先をじっと見つめる。
なにかを奪った手。奪ってきた手。
今夜は、ひとりでいるべきだったのかもしれない。本当は。
それでも、さもなくば痛みを覚える葛藤を忘れようと……こいつを求めるあたしは、狡い女だろうか。
「シカマル」
あたしは小さな、それでもはっきりした声で、男の背中に呼びかける。
「もう一回、したい」
それともこうやって痛みを癒すのは、普通のことなんだろうか。
布団へ潜り込んだシカマルが、無言のままあたしの唇をふさいだ。舌が乱暴に口腔をまさぐる。それでも指先はあくまでも優しく、ほどけた髪を撫でている。
くちづけはオレンジの味がした。喉を、肺を、血管を経由して、その甘酸っぱい香りが身体中に拡がっていけばいいと願い、あたしは必死に唇を求めた。

今夜はどうも、眠れそうにない。
時計が朝まで秒を刻まないというのなら、それでもいい。


あとがき

緑さまより、ブログサイト開始1ヶ月記念リクエスト、
シカテマで「時計仕掛けのオレンジ」。サイト移転時にプチ改題。

*緑さまのみお持ち帰り可です。