童の夢、忍の現





眉間に皺を寄せる癖は、いつになっても変わらない。
それなのに。





童の夢、忍の現
-Beyond the Innocence-






「……お前、頬に墨、飛んでるよ」

書庫の薄暗がりから明るい廊下に出てすぐ、奴の顔にある染みが目に入った。
窓際の、それでも明るい席で作業をしていたとはいえ、
書類を前にして俯いていたせいか、正面にいた私も気がつかなかった。

「マジかよ?」

シカマルは慌てたように指を頬の上で滑らせる。
その先端にうっすらと移ったくすんだ墨黒を見つけると、
また面倒くさそうに眉根を寄せて、もう片方の手で懐を探り始めた。

……5秒、10秒。そのまま、ごそごそと探索を続けている。
どうせ、手拭をどこに仕舞ったのか忘れてしまったのだろう。
忍具の隠し場所は間違えないのに、必要以外の物事には本当に無頓着な男だ。

そのあたりは、この男の昔から変わっていない部分のように思えた。

自分の懐紙で拭いてやろうかとも思ったが、取り出しかけて、ふと手を止める。

「あっ、奈良センパイ」
「お疲れ様でーす!」

若いくのいちが二人、廊下の奥からこちらに向かって歩いてくるところだった。
あまり他里で噂になるような立ち居振る舞いをするわけにも、いかない。
特に、色恋沙汰の噂には目がない、平和な里のくのいち達の前では尚更で。

「おう、ご苦労さんー」

本を両手に抱えたまま近づいてくる、私の知らない顔のくのいち達に
奴は妙に先輩ぶった口調で言葉を返している。
彼女らは、立ち止まっている私達を邪魔しないように、廊下の端へと移る。

二人は私にも軽く頭を下げ、すれ違っていく。
片方の娘の視線は、けれど、私の貌のやや上をかすめていった。
憧れだろうか、何かを期待するような色が、彼女の瞳の表面で煌めいていた。

……その憧憬に気付いていたのは、当の鈍感男でなく私だったのだが。

その後ろ姿を目で追えば、娘のひとりが、もう一人の耳元で何かを囁いている。
単語は聞き取れなかったけれど、会話の内容に予想がついたのは何故だろうか?

「……取れた?」

薄布で、先ほど私が示したあたりをぐい、と拭い、奴が訪ねてきたので、
どんなもんかと拭いた跡を見てやったものだが、

「いや、むしろ引き延ばされた」
「んだよ、やっぱり水じゃなきゃ駄目かよ…」

どうやら、拭きとりを試みる前よりも、染みは面積を拡げていた。
私は肩をすくめて、つい今しがた通り過ぎた扉のひとつを指す。

「そこにお手洗いあっただろ。水で落としてきたほうがいいよ」
「だな。ちっと待たせっけど」
「構わない」

……廊下にひとり取り残されて,私はひやりとした壁に背を預ける。

すぐ脇の扉は開け放たれたままだ、

たまに流水の音が止まり、しばらくの沈黙のあとでまた再開する。
鏡を覗き込み、ひろがった墨の後をどうにかしようとしているんだろう。

(あいつは、わかってないんだろうな)

鏡に映るあいつの顔は、私が知っていたそれとは確かに違うはずで
その事実をあいつ自身が認識しているのか、ということがふと気になった。
……客観的にもだ。若い娘達が振り返っては内緒話をする程度には。
毎日,飽きる程対峙している本人だけが、たぶん気がついていないが。

奴は、変わった。

子供から忍になり、今度はいつのまにか大人になろうとしていた。
一度目は、私が知っている変化だった。
けれど、いつのまにかあいつはもう一度、変わっていた。

私のいない間に、だ。

あの病院での一夜を通して、確かにあいつは成長したんだろう。
後悔に押しつぶされる子供から、挑み続け,鍛錬してゆく忍へと。

そして噂にだけ聞いた、奴の師の仇を討ったという戦い。
アスマ殿より預けられたものの正体に、私も会いはしたが。

(助かった親友と、助からなかった師)

どちらがより強く、彼に変化を強いたのか。それはわからなかったが、
ただ理由のない違和感が、さむけのように私を覆っていた。

奴がそのうち、どんどん理解できないものに変わっていくのだと思い、

(だからどうした、それが成長するということだろう?)

もとより冷たい壁の温度が、また急激に下がった気がした。
いったい何が許せないのか、わからないのか、認めたくないのか
どうにも腹の底がざわざわとして落ち着かない。

タイミングよく水音が止む。私は安堵のため息をつく。

「ワリ、待たせた」

奴は悪びれた様子もなく、軽い足取りで廊下へと出てきた。
預かっていた書類の束を手渡してやると、まだ手が濡れていたのか
肘と体の間に挟んだまま,器用に手先だけをズボンで拭いていた。

私は、奴の準備ができたころを見計らって、声もかけず歩き出す。
ほとんどズレのない、けれど一拍だけ間を置いて、奴も脚を出す。

自然と、私達はまた歩き出す。

天井の低い廊下で、私達の足音は随分と響く。
ーーーーいつのまにか広くなった奴の歩幅。

窓の少ない一角で、通路を照らし出す壁付きのランプ。
ーーーーいつのまにか見上げている、奴の横顔。

私が黙っているからだろうか、奴は何も言わない。
ーーーーいつのまにかわからなくなる、奴の。

(わからないんだ,本当に)

認めたくはないけれど。

離れている間に、相手の生活にどんな変化が起こり、
それが相手をどう変えてしまうのか、判らないという事実。

私の愛していた誰がが、過去になってしまうということ。
いつ、どうして過去のものになったのか、知る術がないということ。

……ただの物理的距離は越えればいい。
けれど、時間の距離は?

あの角を曲がって階段を登れば、火影様の執務室だ。
この任務の報告が終わったら、私達はどうするのだろう。
前回の来訪の際と同じように、甘栗甘で良いのだろうか。
今まではルーチンでしかなかった帰り道が、突然に不確定なものになり。
気がつかないうちに歩むペースを少しだけ落として、私達は進んでいる。

(仕方のない、ことなのかもな)

私は、隣の男が勘づかないほどの小さなため息を漏らす。

後ろには長い廊下がある。戻る事のできる、距離がある。
けれど私達はためらわず、次の角を曲がる。

廊下は無人だった。いくつかの扉と、その向こうに階段が見えた。



ーーーー突然、



指先にあたたかいものが触れて、絡んだ。

まだ少しだけ湿りけを帯びた、奴の手が、
私の右手の中指と薬指の先を愛おしそうに撫でて、

「ひさしぶりに、触れた」

視線は前方に据えたままで、そう言った。

人目をはばかってか、すぐに距離を置こうとする骨張った指先。
私はそれを素早く捕らえて、きゅっと握りしめる。

「……人、来ても知らねーぞ」
「それくらい察せれる」
「へーへー」

目を見てしまうのは、まだ恐かった。
それでも。

それでもここにある体温は、それだけで十分な現実で、
ちら、とだけ視界に入った、驚きと照れが混じった表情は、
たぶんいくつになっても変わらない奴の芯の部分なのだ。

この感触も。
中指の第二関節の太さも、薬指の爪の平たさも。
力を籠めるとすぐに応えてくる、そのタイミングさえも。

だから。

抱きしめてやりたい衝動にかられたけれど
それはさすがに自重して、もう少しだけ指先に力を籠める。

応えるように、痛みを感じる程の力で握り返された。
押し出されるように言葉を発しかけて、なんとか押しとどめた。

今はただ、このままで。あと15歩の距離だけ、

あの階段の手前までは、
だから、このままで。




inspirated by erp's illustration "beyond the..."

あとがき

erpさまの新企画に参加させていただいた作品です。
本誌でのしかまる浮気疑惑(笑)かつKYぶりに直面し、
どうも幸せな妄想をする気力が出なかった時期に、
絵と対峙しながら、気持ちをうまく整理することができました。

素敵なコラボの機会をいただき、感謝感激です!!

すぺしゃるさんくす:人形遣い@GITS