戦乙女




父様は、その絵を屋敷の部屋に飾っていた。質素な額縁にさりげなく収められたその絵は、風の国の隠れ里である砂隠れの指導者の嗜好としては、かなり奇妙と呼べるものであった。

テマリはゆっくりと言葉を選びながら、そう語った。

「たぶん、見たことがあるのはあたしと、弟たちだけだろう。影たるもの、体裁だけでも風の国絶対主義でないといけなかったから。まさか他国の絵画は、置けない」
「火の国の国宝……それが複製品だとしても、ですね」
「だろうな」

静けさが支配する空間を二人のくのいちは進んでいく。周囲の足音やざわめきはまるで遠く、発される先から天井へと吸い込まれていくようだった。二人は先程からまったく足音を立てない。隣を往く上忍の真直ぐな姿勢に目をやりながら、こんな場所でも習性は抜けないのね、とサクラはぼんやりと思った。

「そもそも忍に風流など要らぬ、といつも口癖のように言っていた父だ。だから不思議には思っていた。突然に絵などを飾るなんて」

そこで言葉を切る。僅か数年前に他界した家族のことを、それも、所謂サクラの想像する「家族」という関係とはおそらくほど遠い何かのことを語る時、それがどんな痛みを伴うことなのか、きっとどうしたってわからないのだろう。

「サクラ」

いつしかファーストネームで呼び合う仲になった砂隠れの里の上忍は、どこか肌寒い館内を歩む足を止めて、彼女のほうを見やる。

巡礼のような真剣さをたたえた翡翠の瞳が、目の前で揺れる。

「今日は、無理を言ってすまない」
「――――たいしたことじゃないです。美術館にお連れすることくらい」
「だが、お前も予定があっただろうに」

今更ながら申し訳なさそうな顔をしてみせるテマリに向け、サクラは安心させるように微笑んだ。

「あら、こんな都会でテマリさんと堂々とデートできるなんて、逆に里の皆に羨ましがられますよ!……特に、いっつも昼寝ばかりしてる誰かさんとか、ね」
「……ったく、木の葉の中忍どもは口が減らない……」
「それはもう師匠譲りですから♪」

それを聞いたテマリは、成る程、と妙に納得した表情でうなずくと、また前方へと足を踏み出した。(これで納得されちゃう師匠も、どうかと思うわ)その背を追いながら、心の中でサクラは呟く。

額縁の内側から、大勢の視線がふたりの往く先を眺めている。いくつもの古めかしい肖像と、何故か赤と炎ばかりが支配する風景が、歩を進めるたびに背後へと流れ去っていった。

彼女たちが進むのは火の国の城下町、国立美術館二階北翼。――――ついさっき通り過ぎた扉の上には、磨き上げられた金属のプレートが下がっている。その表面には、「自由の回廊」と刻まれていた。





ことのはじまりは、全くの偶然だった。

「テマリ、さん?」
「お前は木の葉の…春野、サクラ?」

刻は正午、火の国の城下町。

ひと休みにと立ち寄った茶屋の前で団子を待っていると、見覚えのある後ろ姿がすぐ脇の道から現れた。あれ、と思って声をかけてみれば、やはり。

風影の姉であり、火影を擁する木の葉の里と縁が深いテマリのことであるから、何かしらそれなりの任務を帯びているに違いない。そう考えたサクラは当たり障りのない質問を頭にさまざま思い浮かべてはみたが、先を制したテマリが、その節は世話になったと、ずいぶん律儀に頭を下げた。上忍から改まった礼を受けることにいくらかの気恥ずかしさを覚え、とにかく急いで言葉を探す。

「あの、お一人なんですか?」

そして、口をついた質問の間抜けさに、自己嫌悪のひとつもしたくなった。

「そう。ちょっと使いで来たんだけど、今は私用。お前も連れはいないのか?」
「あ、はい。医療器具の買い出しに…というか、師匠のお使いみたいなものですけど。やっぱり城下町の店は、いいものが揃ってますから」
「火の国はならではだな…各国の流通の要のような位置にあるだけ、やはり羨ましいよ。砂漠の縁にある風の国では、そうもいかない」

なんとか自然な会話に持ち込めたことにほっとしながら、運ばれてきたみたらし団子をテマリにも勧めてみる。テマリは最初「いや、大丈夫」と遠慮するような仕草を見せたが、すぐ思い出したようにサクラの顔を見た。

「そういえば、ちょっと頼みごとをしてもいいか」
「…? なんですか?」

テマリはさりげなく右手を伸ばして皿から団子をつまみ上げると、やはり貰おう、と今更ながら呟き、しかし口に運ぶ手は止めたまま続ける。

「うん、実は、案内を頼みたい」

そう宣言した後は、サクラの返事も待たずに、静止していた団子をぽいと口に放り込む。ずいぶん豪快な咀嚼っぷりを目の前に、なんだか本当に憎めない人だな、サクラはそう思いながら頷いたのだった。





かなり前だけどね。父様の遺品を片付けている時に、絵が出てきたんだ。

テマリが告げた行き先とは、火の国が国宝級の絵画や芸術品を貯蔵する、いわゆる国立の美術館だった。場所に辿り着くだけならテマリ一人でも問題はなかっただろうが、わかりやすい衣装に身を包んだ外国の忍が入館を許可されるかという点が懸念だったらしい。

「木の葉の忍の案内ということなら、問題ないと思いますよ」

どうせ時間はたっぷりあると、むしろ愉しみながら案内役を引き受けたサクラはそう教えてやる。しかし、美術館までの途で聴き手にまわっていたのは彼女のほうだった。

今は亡き先代風影の長女は、午後の明るい光の下でこともなげに理由を語った。

最初は意味がわからなかったよ。絵そのものは有名だしな、知ってはいたが。けれど、あたしがまだ幼いころ、火の国から帰ってきた父様と上役が口論していたのを思い出した。わざわざ敵対国に潜入した理由がそれか、少しは立場というものを考えろと…きっと、父様はその絵の本物を観にいったんだろう。

「だから、あたしも観なくちゃいけないと思ったんだ。同じ絵を」

そこまで語り終わったころ、二人が歩む大通りの向こうに美術館の白い建物が見えた。年季の入った壁は、それでも陽光を反射してきらきらと光っていた。





「こいつ、か」

歴史、つまり沢山の戦争を描いた絵が並ぶ廊下の端に、それは飾られていた。

この国ではもちろん知られた、国宝の名誉を与えられた絵を一目見ようと、大勢の見物客が立ち止まっている。けれどその視線の殆どは、いつぞや書物や写真で目にした歴史的ななにものかと、自身の前にある薄っぺらい紙の世界が、いわゆる同じものかどうかを確かめているだけのようだった。ひょっとしたら、どちらが偽物なのかを確認しているようにすら見えた。

(幾人かには、それこそ「世界の名画百選」のほうが余程本物に見えるらしい。眼前の押し迫るような色彩ではなく、手元の本にじっと視線を落としていた)

意識を壁側へと戻せば、やや頼りない明りの中、決して低くはない天井に届きそうなくらいの大判の絵画が、明らかに異質かつ圧倒的な存在感を放っている。

背景は黒と群青で塗り潰されている。闇夜が海のように畝る。画面の下半分には赤と橙で縁取られた炎があちこちに浮かび、その炎が照らし出しているのは、ただ押し寄せて来る群衆の姿だ。決して整えられたとはいえない即席の戦闘服に身を包み、その全身には血と疲労がこびりついてはいるが、それでも表情と瞳の中に見出せるものは、確かに絶えない希望の光だった。

そして地味な深緑の額縁の、中心からやや右手寄り。
うら若い娘が、古き戦を駆けている。

戦場を縦横無尽に駆け抜けた女の伝説が、この絵のモチーフだという。白拍子であったと伝えられるが、彼女の実の姿はくノ一であるという話は、忍の間ではもはや定説だ。手に手に武器を携えた男達を率い、累々と築かれた屍の上を、跳ぶが如くに駆けて。けれど握るのはクナイではない。紅に染まったサラシのような布を旗竿に絡み付け、背後に続く者達へ見せつけるように、頭上高くそれを掲げていた。

血の意志。燃えるような独立への渇望。

「…………民衆を導く朱月の姫」
「別名、朱御前とも呼ばれます」

絵の脇に据えられた目立たない題名を読み上げる。補足するサクラの言葉に続けて、テマリは見上げる頸の角度は変えないまま呟く。

「こいつは火の国がはじめて国として独立した時の絵、と聞いた」
「今の大名様の先祖は地方豪族に過ぎませんでした。火の国の城下町がある辺りは大昔、他の大国の一地方でしかなかったんです。彼は当時の圧政に反対して、民衆とともに立ち上がりました。ただの謀反じゃなく、農民一揆と連動して」

歴史はサクラの得意分野だ。かなりかいつまんではいるが、テマリも細部骨子に渡って講義を受けたいわけではないだろう。とりあえず簡潔に説明する。

「その時に、劣勢だった反乱軍の情勢をひっくり返したのが朱御前と言われています。そのカリスマ性と戦振りが、より多くの民衆を動かし…最後に、国までを動かしました」
「ただ、最後は磔にされて死んだというな」
「ええ、独立後のある戦で殿を務めたものの、最後は敵の手に落ちて。助命嘆願はしなかったそうです。辞世の句も詠まずに亡くなったと」

そこまで聞いたテマリは、そうか、そうやって死んだのか、と呟いて、あとは無言のまま絵をじっと見つめていた。サクラは一歩下がって、伝説の戦乙女の絵を背景に佇むくノ一の背中を眺め続けた。

どれだけの時間、彼女は立ち尽くしていただろう。

さすがに声をかけようと再び近づいたサクラに、

「父様はな」

テマリは視線もそらさず、髪ひとつ揺らさないまま言った。

「……絵の裏に手紙のようなものを、挟んでいたんだ。それは」
「あの、私が訊いても?」
「構わない。むしろ、お前が気にしないのなら有難い」

そして一語一句をゆっくりと区切りながら、テマリは言葉を詠んでいく。

――――私がはじめ女の中に見たものは、窮乏の中、女手ひとつで我ら兄弟を育て上げた母の姿であった。くノ一として強く気高く、殺めることでしか我らを養うことができなかった母であった。

暗唱される音のなかから、感情は限りなく排されている。

――――しかし末のあやつを取り上げる際の、あの血に染まった布を前に、私は凛々しい女の姿を我が妻にも重ねた。私はこの子を憎み哀れみそして愛するでしょう、いつかそう微笑みながら告げたそなたの覚悟に、己の信ずるもののために身籠りながら戦場を駆け、腹を突かれても戦い続けたというくノ一の姿を見た。

幾度、その言葉を繰り返し、咀嚼しつづけたのだろう。
その内容を飲み込めるまでに、彼女はどれだけの時間を必要としたのだろう。

――――生きなければならぬ。強大な敵意におもねることなく、我らは歩まねばならぬ。私は里を、民を守るためにならいかほどの血でも流すだろう。数えきれぬ犠牲を強いながら、その咎を一身に受けながら、私は砂の修羅となる。

それは、きっと。

(はじめて誰かをたまらなく好きになって、そうして解るもの)
(どうしても手に入れたいものと、どうしても手放せないものに挟まれて)

遠い、それなのに消せない夜の記憶に、サクラは思わず拳を握りしめた。だが、すぐに自分の記憶に入り込んでしまったことを少しだけ恥じ、恐らくは信頼のもとに打ち明けてくれているのだろう手紙の内容に、意識を集中させる。

「最後はこう締めくくられていた。――――だが、修羅もあくまで修羅らしく、人を愛するのである、と。それを読んで初めてわかった気がした」

すぐ背後に佇む彼女を気にする素振りも見せず、テマリは最後の一文をそっと告げて、すこしだけ目を閉じた後に、眼前の絵を再び見上げた。

「父様は、母様を愛していたのだと。朱御前に母を重ね、その絵を部屋に大事に飾っていたのを見てーーーーやっと、理解した。その愛し方はひょっとして間違っていたかもしれない。それでも指導者の愛し方というのは綺麗ごとだけでどうにかなるものではないと、今なら少しは……わかるんだ」

それからは沈黙だけが続く。斜め上の紅の旗を見つめるテマリの瞳に、光るものが瞬いた。





「出口のところで待ってますね」

サクラはまだ動かない背中にそれだけ告げて、先ほど通り抜けてきた回廊を戻り始める。返事はなかった。きっと、喉につかえてひび割れた声を他人に聞かせたくはないだろうから。テマリを残して、サクラは足早に出口へ向かう。





後に残るのは、時を隔てた二人の戦乙女の姿だけだった。



あとがき

家族の想いを理解することが、遅すぎるなんてことは決してないのだから。
「Anemone」のかえでさんへ捧げます。