遥か




「国に帰ることになった」

女は唐突にそう告げた。オレたちはいつも通り、海岸沿いの、展望台と桟橋の間のような場所で待ち合わせていた。見回しても中途半端に時代の先端を気どった無機質なビルがあるばかりで、待つことに何の楽しみも見いだせないような場所だ。海に面した手摺はいつも潮のせいでどことなくベタついていて、その感覚がずっと当たり前だったオレとしてはどうということもなかったけど、海育ちじゃない女にしてみれば「よく寄りかかれるね、そんなとこ」といった代物らしかった。

「親父が死んじゃったって言ったよね。ちょっと前にさ。別に一緒に暮らしてたわけじゃないし、あいつもあたしたちのことガキだとさえ思ってなかったかもしれないけど」

彼女はいつもオレより先に到着する。とはいえ、待ち人来らずという風情でもない。オレが声をかけるまで気付かないのだし。遅れて来たオレがとりあえず「悪い」と謝っている間も、生粋の日本人のものとは明らかに違う彼女の翡翠の双眸は、確かに海面近くの気流の上で翼を拡げる鳥の姿を追っていた。「鴎が風に乗って飛ぶだろ。それ見てると飽きないんだよ」そんな言葉の後でやっと、オレたちは二人で殺風景な港から歩み去る。

「悔しいけど、あたしたちの暮らしはあいつの送金頼りだったから。このままじゃ生活費が足りない。あたしの年じゃ、まだ弟二人を養えない」

だけどその日、あいつは港の風景から目を離そうとはしなかった。放課後に、休日に、数えきれないくらい何度も訪れてもう意識すらしなくなっている構図のはずなのに、まるで初めての光景を前にしているかのような視線だった。あまり揺れない波間、そして不規則な段々とともに林立するビルディングの輪郭を、ゆっくりと撫でるようになぞっていた。

「祖父母がいるんだ。まだ、あっちで元気にやってる。ずっと会ってないけど、手紙だけやりとりしてた。母さんの両親なんだけど、一緒に暮らしたいからおいでって言ってくれた。弟も一緒に」

ここ数年で外国人の数が目に見えて増えたと思う。肌の色だって漆黒から陶器のような白まで千差万別だ。特に昔っから港町として栄えてたこの街で、ただ黒目黒髪じゃないなんていう外見的特徴は、それだけで人がじろじろと眺めるような理由にはならない。それでも彼女の背中をたくさんの視線が追っていくのは、いつもピンと伸ばされた真直ぐな背筋のせいかもしれないし、(決してモデルのように高いというわけじゃないが)バランスのとれた長い手足か、もしくは単純に孤高の強さを醸し出す、整った横顔のなせる技だったんだろうか。

「学校にもすぐに編入できるってさ。全寮制のカレッジ。うちの大学と交換留学してるとこがあるらしくて、そこなら単位の問題とかも少ないし」

……オレは人並み以上に独占欲が強いほうで、本音をいえばあいつのミニスカートがあまり好きじゃなかった。そんなもん、オレの部屋でだけ着てくれりゃいーんだ、なんておっさん臭いことまで考えてしまうくらいに。「ロングでスリットとか入ってるほうが格好いいじゃん?色は黒ね」なんて、さもファッションのことは心得ていますなんて顔でのたまっている自分を一歩退いたところから眺めて、狡い性格だな、と我ながらため息をつく。

「だから………」

あいつはいつだって核心に切り込んでくる。長々と前置きをしたりしない。オレにもさせない。口数少ない仏頂面が横並びしているせいで、はたから見れば喧嘩しているように見えることもあったらしい。それでもオレにとっては不思議なくらい心地いい空間だった。あまり人を寄せ付けたがらないテリトリー同士が違和感なくに融合しているような感覚、か。無理矢理にでも表現するなら。

「……うまく、言いづらいな。まったく」

言いかけた言葉を飲み込んで、前髪に手をやっている。視線は変わらず鴎を追っている。ああ、それだけ言葉にするのをためらう内容だったんだろう、今日に関しては。オレは何を言われるのか承知していたし、彼女だってオレが知っていることを了解していたはずなのに。オレたちは本当に言うべき事をいつも口に出さないでいて、それがバランスを保つ最善の方法だと信じきっていたから。

港町の、潮臭い風が吹いた。

まるでオレとあいつの間に、わざわざ割り込んでくるような風だった。

…………そのまま引き離すつもりなのか、などと邪推する程に強く。

「行けよ」

オレの声に、あいつの顔が反射的な動きを見せる。こちらに向けられた双眸が揺れている。イニシアチブの逆転。突き放される絶望を甘受しきれない動揺が、その瞳の中にあからさまに現れている。思い返せば、あの瞬間の記憶はどこまでも翡翠の色だけに支配されていた。オレは他に何も見ちゃいなかった。ほんの一瞬だけ引き延ばした居心地の悪さを取り繕うように、オレは言葉を紡ぐ。

「すぐに追いかけてってやる、から」

呆れたような表情が戻ってくるのは知っていた。普段と変わらない、純粋に納得がいかない時に見せる顔だ。白黒はっきりさせるのが好きなあいつは、物事に対する確固たる判断基準を持っていて、わからない時はわからないとちゃんと告げる。そして理解するまで追いかける。それでも珍しく半開きになった口元から判断する限り、先ほどの提案は例の基準の外に存在するものだった、のかも。

「大学なら留学生制度とかあんだろ?受験は来年だし、まだ奨学金の申し込みも間に合う……と思う。よくわかんねーけど、アスマの奴なら調べてくれるしな」
「お前な。もうちょっと現実を見て喋るとか」
「充分に実行可能な選択肢のつもりっすけど」
「それでも、言葉わかんないと辛いぞ?授業は英語で受けられるとしても」
「問題ねぇ。コンピュータの世界じゃ0と1が共通語だ」
「簡単に言うけどね」

オレは小馬鹿にされるのは慣れてる。ちょうど今みたいに、本気で眉を寄せてオレの脳みその具合を心配している様子にも、さすがに2年ばかり一緒にいれば今更どうとも思わない。そのポジションはお互いの定位置で、説教と愚痴は挨拶のようなもんだったから。だけど本当のことを言えば、いつだって追いつきたかった。伸びさかりの身長が彼女を追い抜いても、まだ足りなかった。

「…………でも」

だからあいつが呆れたような表情をすぐに追いやったのは、とても意外で。始めて会った時、彼女は将棋盤の上にジャージを乗っけて枕代わりにしてたオレを一瞥し、即座に「こいつが、本当にあたしを負かした奴だって?莫迦言ってないで本人を出しな。どこに隠れてるんだか知らないけど」と言い放ったもんだ。呆れどころか侮蔑の感情がくっきりと浮かび上がっていた。結局はネットワーク上じゃない、本物の盤の上で敗退を喫するまで、オレがここ最近であいつを倒した(それも初挑戦で)唯一の同年代だったってことを信じやしなかったけど。

「待っててやるよ。あたしが大学を卒業するまでなら」

あいつは笑った。手合わせの後で、オレを認めてくれた時と同じ顔で。
眩しい笑顔だった。

「おお。とりあえず新しい住所教えろ。めんどくせーけど手紙書いてやる」
「…………いつまで続くもんだか。筆無精だろ、お前」
「できたら住所書いた封筒を10セットばかりくれ。したら楽だし」
「阿呆」

オレはあいつの細い手首を掴んで、引っ張るように歩き出す。自由自在に宙を舞う鳥の群れはもう眼中になく。どこへいこう。時間は少ない。とりあえずホテル行きてぇって言ったら殴られるだろうか。だろうな。仕方ないから、まずは飯くらい喰うことにしよう。その前に横浜に戻ってデパート探すか。1、2年ぽっちの時間、くだらねぇ莫迦がこいつにちょっかい出さないようにするには……指輪くらい、やっとかなきゃ駄目だよな。昨日がバイトの給料日ってのはラッキーだったな。

どこか遠くで船の汽笛が響いた。遥か海の向こうから来た、船だろうか。
突風が吹いて、橋の欄干にとまっていた鴎がいっせいに飛び立った。

image illust by 「Life work」erp様
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あとがき

すぐに飛べそうな気がした背中。by SPITZ

インスピレーションの素となったerp様に捧ぐ。