決意の朝に/学園編




普段の終わらない騒がしさが嘘のように、今朝の教室は静かだった。

厳密に言えば、そこは普段おなじみの教室ではない。3クラスぶんの学生をまとめて放り込める階段状の大教室だ。特別な講演会だとか発表会、もしくは大型の試験日にしか使われない場所である。

「ここの雰囲気って緊張するよね」

ほとんどの学生が真剣な面持ちで手元のノートを覗き込んでいる中、たった1人じゃがりこの袋を机の下に隠したチョウジが口を開いた。が、その空間には即座にお菓子が放り込まれ、ぼりぼりという咀嚼音が静かな教室に響く。

背後に座るポニーテールの女生徒が、間髪入れずに呆れまじりの表情を浮かべた。

「どこが緊張してるってー?」

さっきから猛スピードで英単語帳を繰っている手を止めて、いのは言う。

「全国模試だってのに、そんなに平然としてるのってチョウジくらいよ」
「ボクは実家の料亭を継ぐもの。大学なんてどこでもいいんだよ」
「とかいって成績悪くないんだから、不公平だわ……」

その数席向こうでは、いつも通り余裕綽々といった様子のサクラ。復習用らしいノートを一瞥した視線がついと窓のほうに向けられ、初夏の陽光が踊る屋外の景色を経由し、そのまま真横にいるナルトの顔の上に着地した。

一瞬だけ眉をひそめて、やや遠慮がちな声で囁く。

「ナルト、あんた珍しく勉強したみたいじゃない?まるで一睡もしてないっていう顔してるわよ」
「あー…」

ちらりと横顔を眺めただけのサクラが気がつくほど、ナルトの表情には憔悴の色が見える。サクラの声に、ナルトは渋々といった様子で重い頭を持ち上げた。

正面から眺めると、くっきりと陰が浮いた双眸が余計に目につく。まるでサクラの言葉をゆっくりと反芻するかのような間の後で、答えは遅れて到着した。

「違うってばよサクラちゃん。我愛羅と電話してたんだってばよ、一晩中」
「我愛羅くんって……砂高の?」

目を丸くするサクラ。ナルトは拗ねるように頬を膨らませ、そして続ける。

「あいつ海外のどっかに転校するってのに、今日は見送りに行けないんだ」
「そうなの?なんでまた、そんな急に?」
「なんだか家の都合らしいけど、我愛羅のやつ無口だし、聞きづらい雰囲気だったってばよ……」
「ヨーロッパだかどっかに住んでるじーさんばーさんとこに行くんだろ、確か」

今度は斜め後ろから、遠慮を知らない能天気な声が割り込んできた。見れば制服を気崩した男子学生、犬塚キバだ。机に脚を投げ出し、

「行っちまうっていえば、カン兄も一緒にだぜ?バンドも解散だしよー」

あーあ、という失望の声をあげながら天井を見上げている。

誰のことを話題にしているのか一瞬思いつかなかったらしいサクラだったが、すぐに「カン兄」が我愛羅のひとつ上の兄であるカンクロウのことであると気がつき、まるで何かに追いつこうとしているかのようにウンウンと首を縦に振った。

「新しく入ったバイトと音の趣味あわねーの。カン兄と一緒のシフトだと楽しかったんだよなー、ホント。CDとかもすっげー貸してくれたし」

そうなの、と相づちを打ったサクラが、はっと大事なことに気がついたように表情を固まらせた。

「それじゃお姉さんも一緒に……」
「シカマル、あんた」

いのが反射的に顔を上げる。2人の女子学生の目線は、まっすぐにキバの隣の席に向いた。そこには顔を机に突っ伏して居眠りしている風体の、男子学生。両腕の中に沈んだ頭は黒髪で、後ろでひとつに束ねられている。

「ちょっと、シカマル!聞いてんでしょ!?」

いのが声を荒げた。すぐ近くに座っていたヒナタがびくり、と肩を振るわせる。試験前まで居眠りを欠かさない学生、シカマルはいのの幼なじみで、いつも面倒くさいとばかりぼやいて動こうとしない彼の尻を叩くのは彼女の役目だった。果たして、シカマルは顔を少しだけずらして、前の席を埋める女生徒を眺めやる。そして。

「あーー、おととい会ったぜ。ちゃんと」

それだけ言って、眠い、と呟く。次に続いた大欠伸に、サクラといのはためらいと非難、そして同情の混ざった微妙な表情を浮かべた。

クラスメイトは多かれ少なかれシカマルとテマリの間柄を知っていた。キバからライブのチケットを無理矢理買わされて、同じくカンクロウに引きずられてやってきた我愛羅やテマリと顔見知りになったというわけだ。

顔さえ繋がってしまえば話題はすぐに伝播する。奴らが突っ込んだ詳細まで知らない唯一の理由は、どれだけ冷やかされてもシカマルが面倒くさがって知らぬ存ぜぬを通した成果だし、かといって彼らがテマリに直接訊くわけにもいかず、というそれだけの話だ。

「仕方ねーだろ。家の事情なんだしよ。手紙とか書きゃいーし」

めんどくせぇよな、世の中って。そんなことをもごもごと呟いて、シカマルはまたふて寝の体勢に戻る。サクラは何ともいえない複雑な表情のまま、そして急に不機嫌そうになったいのが、大仰な仕草で単語帳に視線を戻した。

「ま、模試をブッチするわけにいかないし、仕方ないわよねー」
「いの、今はそっとしといたほうがいいと思うよ」

怒りを含んだいのの声と、彼女をたしなめるようなチョウジの言葉。憐憫の籠ったサクラとヒナタの視線は変わらずに、彼のほうに向けられているのを感じる。別に心配されるような落ち込みを披露しているつもりもないのだが。

(どんだけ気ぃ使わせる空気を発散しちゃってるのかね、オレ。情けねー)

聞いていない振りを装いながら、シカマルはちらりと教室正面の壁を見上げた。掛けられた時計の針がじりじりと進んで行く。ゆっくりと、しかし確実に。

フライトは11時、そうテマリが教えてくれた。最後に会った、あの夜に。

もうすぐチェックインのためのカウンターが開く時間だ。テマリと2人の弟が片道のチケットを受け取るのと同時に、シカマルはこんな離れた教室の中で渋々とペンを持ち上げ、延々と続く数学やら英語やらの問題群に向かっていくことになるだろう。全国模試の重圧が学生たちの気力体力をさんざん吸い尽くした後では、全てがもう遅い。シカマルが我に返った時、テマリは既に機上の人となっているはずだから。

そんなことを考えているうちに、時計の針はまた数ミリだけ前に跳ねる。

ジリリリリリ。

試験開始時間まで10分を知らせるベルが鳴った。先ほどまでシカマルの背中を眺めてお互いにきまり悪げな表情を交換していた面々も、これぞいいタイミングとばかりに手元の教科書に視線を戻す。

が、すぐに耳障りな電子音が途切れたベルの後を追った。

「あ、やべえ。音消すの忘れてた」

と慌ててポケットに手をつっこんだキバ。彼の上に、音量に比例して増える非難じみた視線の集中砲火が浴びせられる。本人は台詞程に気にした様子も見せず、堂々とフリップを開いてディスプレイ上の名前をじっと覗き込んだ。む、と一瞬だけ眉を寄せる。

「カン兄からメールだ」

右手の親指がボタンの上を踊り、んん?という疑問符を無理に音へと変換したような唸り声を出したキバは、その携帯電話で隣のシカマルの後頭部を軽く小突く。「痛てーな、何しやがる」と、じろりと横睨みをするシカマルの眼前で、子犬のマスコットがついたストラップが揺れた。キバらしい、派手な赤い携帯がすぐ目の前に掲げられていた。

「なんでオレに見せんだよ」
「だってカン兄の姉ちゃんから、お前にだぜ」

がばりと起き上がるシカマル。悪友のニヤニヤ笑いは無視し、そのまま携帯を引ったくる。確かに、タイミングよくキバが再生したらしいメールの添付映像には、一昨日前にその手で触れたばかりの金髪が映されていた。

ーー何言えばいいんだ?。
――何でもいいじゃん。もうしばらく話も出来ないんだし。
――だって、急に言われても……。

雑然とした空港のロビーを背景に、困惑したテマリの顔が映し出されている。おそらくカメラ付き携帯を構えているカンクロウに向けられているんだろう、視線はまっすぐにレンズを覗いてはいない。カンクロウの声に続いて、眉を寄せつつ思案するテマリの表情。

そして長めの沈黙。



――――――――試験、頑張れよ。

ただ、それだけだった。

さよなら、とは言わない。また会おう、とも言わない。
辛いはずなのに、ただ笑って。普段通りに。
どうしてこんなに優しいんだろう。最後なのに。

……最後、なのに?そんなわけあるか。始めて旅立ちを告げられた日、それでもシカマルはテマリと未来の約束を交わしたはずだった。でも、時間が経つほどに約束はただの夢物語へとその色合いを変えていって、昨日は電話することしか叶わなくて、相手がいったいどれだけ真剣にその約束事を受け取っていたのか、顔も見ないまま確かめるには臆病すぎて。

「あーーーーーーーーーーーーーーーー、くそっ」

静止したテマリの画像。乱暴にフリップを閉じて、キバに突き返す。
毒づいたシカマルにかける言葉を知らず、誰もが沈黙を守る。

「フライト何時だ」

たった1人を除いて。

「…………あと2時間ちょい、後」
「成田までならバイクで飛ばせば、ここから一時間半で着ける」

常に動じる事のない静かな声は、シカマルの隣に座る男子学生のものだった。両肘をつき、組んだ手の甲に顎を載せて、つまらなそうに黒板の方向を眺めている。その視線を1ミリもずらすことなく、うちはサスケは言葉を続けた。

「青葉ジャンクションから東名に乗ればいい。谷町から首都高に入ったら有明方面に向かえば、後は標識見てれば着くぜ」

ただ、ずっと側にいる者なら、彼のその距離を置いた振舞いが……特に今日のような場合は……照れ隠しだとか、安売りはしない優しさだと知っている。

「…………おー」

だからシカマルもいちいち礼は言わない。一瞬だけ逡巡すると、

「キバ、単車借りるわ!」

キバの机の上に放ってあったバイクのキーを引っ掴んだ。返事も非難の声も待たず、机の上を跳んで通路まで辿り着くと、そのまま階段教室を駆け下りる。教室中の視線が彼の背中に注がれた。開けっ放しの扉を彼が走り抜ける際、紙束を両手にのそりと入室してきた大柄な教師とすれ違う。

「悪ぃアスマ、急用できたから早退な!」
「おい、早退って……もう模試が始まるぞ!」
「本番でちゃんとやっから心配すんなって!」
「いや、本番ってな……!」

驚いて取り落としそうになったテスト用紙の束を慌てて抱え直し、猿飛アスマが廊下に向かって叫ぶが、もう遅い。遠ざかるシカマルの声は、彼のいつもの緩慢な態度からは想像もつかない俊敏さを表していた。

すぐにバイクのエンジンが始動する低い音が響いてくる。窓際の席に座っていたナルトが慌てて窓を開き、音の主を探した。ちょうど教室の真下にある裏門を抜けるとすぐ先にコンビニエンスストアがあり、その駐車場に停めてあるバイクに跨がったシカマルがヘルメットの紐を締めているところだった。紐の締まりを確認するように顎のあたりに手をやったかと思うと、あっという間にアクセルを開き、アスファルトの道路に二輪のタイヤを滑らせていく。

「シカマルー、急ぐってばよー!!」

もう試験開始時間も何もあったものではない。さっきまで計算式を復唱していた面々までも立ち上がり、窓に鈴なり状態となってシカマルの行方を見守っている。騒然とした学生たちの様子に気付いたらしい女性教師が、大慌てで大教室に飛び込んできた。

「ちょっと!あんたたち、もうすぐ開始時間よ!とりあえず席に戻りなさい!」

あのハスキーな声は美術の紅先生だろう。いつもなら有無をいわせず生徒を従わせる彼女の叱咤も、窓辺に並ぶ制服の垣根には届かない。

「シカマルも青春してるみたいだね」
「アイツに一番似合わない単語だと思ってたけどねー!」
「愛って人を変えるのかしら?うふふ、サスケくんもいつか……」
「オレも我愛羅を見送りたかったってばよ!!」
「……お前の成績で試験を受けないのは致命的だ、ウスラトンカチ」
「しゃーねーなー。搭乗は時間ギリギリで頼むって、カン兄にメールしとくか」
「しかし不器用な奴だ、相変わらず」
「……がんばって」

「あいつ……どこ行きやがったんだ」

一度はシカマルを追って廊下に飛び出したアスマが、渋い表情のまま教室に戻って来る。腰に手を当て、呆れ混じりのため息をついた紅が彼の姿を認め、からかうような視線を投げた。

「あらアスマ。奈良の坊やならとっくに消えちゃったわよ」
「…………ったく、後でこってり絞ってやらにゃ……」
「試験監督のあなたも絞られるわね、この顛末じゃあ」
「それは言わんでくれ……」

そして、がっくりと肩を落とすアスマに追い打ちをかけるかのように、試験開始を告げる(はずだった)ベルが朗々と鳴り響いたのである。



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あとがき

たみおさまより10,000打記念リクエスト、
Aqua Timezの「決意の朝に」、学パロで。

*たみおさまのみお持ち帰り可です。