決意の朝に/空港編




――――不思議と、間に合わなかったらどうするのだろう、とは思わなかった。よしんば離陸時間には間に合ったとしても、あの広い空港でテマリ達を見つけられる可能性など万にひとつといったところだろうに。出国ゲートをくぐってしまえば、シカマルに彼等を追う術などはないのだから。負け戦と最初から判っているような勝負に力を注ぎ込むなんて、シカマルの最も嫌う所だったはずだ。それでも駒を動かしたのは……

ひょっとしたら、朝空が抜けるように青かった、からかもしれない。



人混みの彼方で揺れる金髪を見つけ、シカマルは弾けるように駆け出した。くすんだ金髪。国際空港でなら特に珍しい色でもなんでもないが、あの特徴的な結び方は間違いない。

金髪の隣に、赤毛と猫耳の帽子が垣間見えた。確定。

「痛ッ!」
「すんません!」
「ちょっと、危ないじゃないの!」
「すんませんってば!」

混雑するフロアで、人混みをかき分けて進む。あと50m、30m……。

――――そこで、気付いた。

「テマリ!!」

その名を呼ぶ彼女は、近いのに届かない場所に居る、ということに。遠目にはわからないガラス張りの壁だ。この国と、他へ往く場所を隔てる壁。チケットをかざし、身体検査と荷物検査を行う最初のゲートだった。そこからは、もう見送りの人間は同行できない。

そのゲートを越えてエスカレーターで地下へと降りれば、出国ゲート。パスポートにスタンプを押されて、搭乗ゲートへと向かうことになる。残された側は、ガラス越しに下り専用のエスカレーターを見下ろし、それが最後。

「マジかよ……」

慌てて時計を見る。既に離陸35分前。ドアを閉め切るタイミングを考えると、かなり際どい時間だった。三人はエスカレーターの手前にいる。声が届かないのだから無理もないが、こちらには気がついていないようだ。

(ここまで来て、そりゃねーだろーよ?)

チッと舌打ちして、シカマルはガラスに駆け寄る。(こっち気づけって!)ダン!とガラスに拳を打ち付ける。思ったよりも音が響かないことに失望して、もう数度、もっと力を籠めてガラスを叩いた。

こんなにも計算せずに自分の身体が動くことを、彼は今まで知らなかった。

はじめに気がついたのは、猫耳フードを被った男だった。なにげなく泳いだカンクロウの視線がぴたりとシカマルの上で止まり、何かを確かめるように目を細め、その後にぱっと笑みが浮かぶ。隣のテマリを肘でつつくと、赤毛のチビとテマリは同時にこちらを向いた。テマリが何か喋っている、が、聞こえない。

シカマルがガラスをもう一度、今度は軽く叩くと、テマリも声が届かないことに気がついたようだった。肩をすくめて、弟たちに向かって何事が告げる。拝むような仕草のテマリに、カンクロウがポケットから何かを出して手渡した。ありがとう、と告げるかたちでテマリの唇が動いた。

弟ふたりはエスカレーターに足を乗せ、そのまま地階へと下っていく。姿が階下に消える前に、彼らの視線がほんの数秒だけシカマルに注がれた。いつも通りの我愛羅の三白眼が何を語っているのかはわからなかったが、カンクロウはどこか愉しんでいるような目でシカマルを眺めていた。

一瞬で、それも視界から過ぎ去り。

直後、プルルル、とシカマルの上着のポケットから電子音が鳴り響いた。

なるほど。カンクロウの奴が渡してたのは携帯だったのか。

「…………よー」
「シカマル、お前な」

聞きたかった声が鼓膜を揺らした。怒ったような、呆れたような、ひょっとしたら困ったような声音だった。どう返答していいかも決めかねたシカマルは無意識に、ふと思いついた疑問だけを舌の上に乗せる。

「なんでカンクロウ、日本から出るのに携帯解約してねーの?」
「あいつだけ会社が違うんだよ。解約日がどーたらこーたらで、使えなくなるのは来週なの。どうせ料金は口座引き落としだし」
「あ、そーゆーことね」
「あいつ写真とか音楽とか連絡先、かなりの量保存してあるからさ、どのみち持っていくつもりだったらしいけど」

そんな話をしてる場合じゃないのに。知っているけれど、なぜか。確かに、このくだらない会話にも、妙な緊張を解してくれる効果はあるとはいえ。

「つーかさ」

本来なら立ち止まる場所ではないエスカレーターの目の前で、ガラスの向こうを眺めながら通話を続けているテマリ。その姿を、絶え間なく通り過ぎる旅行者やビジネスマンが胡乱そうに眺める。

訝しげな視線がテマリのそれを追い、最後に彼まで辿り着く。シカマルは急に我に返って、照れ隠しのように耳の脇に手をやった。視線をテマリにだけ集中させて(ほら、言えって)、言わなきゃいけないことは、それなのに出て来ない。代わりに、

「オレ、マジでカッコ悪くねぇ?」
「ああ、悪い」
「つーかオレのこと見てた奴、全員笑ってただろ?」
「たぶん、笑ってたな」
「……わりー……」
「なんで謝る。あんな場面で格好つけても仕方ない」

ふ、とテマリの唇の端が持ち上がった。そして肝心な言葉を告げたのは、

「それより、間に合ってくれて助かった」
「え?」

あの時はシカマルだったけれど。

今回は、テマリだった。

「本当は言いたかったんだ。離れるのは辛いと。でも言えなかった」

透明な板の向こう、数メートルの距離でテマリの唇が動き、音声はほんの一瞬さえも遅れずに耳元のスピーカーから流れ出す。近いようで、けれど遠い。

「それが格好悪いと思って言えなかったのは、あたしのほうだ」

電子の信号に変換され、その後再び再生されたテマリの声。こんなのじゃなくて聴きたいのは生の声。でもそれは適わない。あそこにいるのは本物のあいつ。あと数分後には視界から失われてしまうけれど。

「……テマリ」

告げたかった言葉をストックしてきたはずなのに、頭は真っ白だ。こんな時だからこそ使わなければいけないはずが、肝心な時に役立たずの……。しばらくの沈黙の後に、シカマルの喉からやっと言葉が滑り出る。

「オレが前に待ってろって言ったの、あれ、嘘じゃねーぞ」

テマリは何かを言いかけた。唇がそっと空気の漏れる隙間を作り、けれど手の中の小さな機械は彼女が発していたのかもしれない音を拾いはしなかった。

シカマルはじっと返事を待った。

テマリは微笑んでいるのか、悲しんでいるのか、わからない顔をしていた。ただ瞳はずっとシカマルのそれを捕らえたままで、数度だけ、瞬きをした。

そして告げる。

「お前に会えなくなるのはとても恐い。まだ恐い。だけど、なんだか……」

通話口にさらに顔を寄せる。囁き声。息づかいまで届きそうに。

「今は、それでも大丈夫なんじゃないかと思える。よかった」
「……ああ」
「ありがとう」

2人は瞬きを止めて相手の瞳を覗き込む。ガラスに隔てられた距離。今は縮められない距離。伸ばしても届かない手。それは、現実。現在。それでも現在の後には、常に未来がある。この離別が再会と繋がる可能性を確かめた2人にとって、今この瞬間に触れあうことが必要なわけでは、決してない。

永遠のような時間のあとで、思い出したように携帯電話のスクリーンに視線を落としたのは、テマリだった。

「もう、時間じゃねーの」

結局のところ現実的なのは女だよな、と思いながら、シカマルは言う。テマリが顔を上げ、ためらいがちの返答が届いた。

「そろそろ、下に行く。出国ゲートでも並ぶから」
「そだな。乗り遅れるなよ」
「わかってる」

一瞬だけ間をおいて、双方とも相応しい言葉を探すように。けれど、使い慣れない甘い文句こそが、むしろ変わらないはずの二人の関係を壊してしまいそうで、結局彼らが辿り着いたのは、

「じゃあ」
「ああ」

という、普段とまるで変わることのない合図だった。そして、ガラスのこちらと向こうを繋いでいた電波はためらいがちに、しかし容赦なく途切れる。ツー、ツー、という無機質な電子音はそれでも胸の奥に隠れた不安を掻き立て、湧いてくるもどかしさのような感情に、シカマルは思わず拳を握りしめる。

携帯を掴んでいるのと同じ右手にボストンバッグを持ち替えて、変化した重量に多少バランスを崩しながらも、テマリが隔てられた壁のこちら側へと手を振る仕草を見せた。……いや、持ち上げられた腕の先で、シカマルが見ることのできる側を向いているのは彼女の掌ではなく。

(……言っただろう?)

左手の甲を表にし、シカマルに向けて軽く振ってみせるテマリ。
薬指には真新しい指輪がきらきらと輝いている。あの日、彼女が行ってしまうと告げた日に、彼が選んだ銀のリング。

(待っててやるよ)

数週間前に埠頭で聞いた言葉が、まるで目の前で語られたかのような臨場感とともにシカマルの頭の中に響く。フラッシュバック。同じ笑顔で、同じ、唇の動きで。

そして迷いのない表情は否応なく自動階段を下り、シカマルの視界から消えていった。それでも携帯を片手に、彼はしばらくその場所から動こうとはしなかった。



空港の屋上とはつまり、主役のいないドラマが垂れ流される場所だ。メインキャストはもう居ない。

一列に並んだ色とりどりの航空機の中から、シカマルは目当ての機体を見つけ出す。3列に並んだ座席の端で、テマリは窓の外を眺めてくれているだろうか。

(――――どうせならもう、とことん追っかけてやっからな)

もう携帯電話でも届かないだろう言葉を、口に出さずに飲み込む。
聞こえない言葉に意味はない。必要なのは、届く距離まで歩いていくこと。

過ぎ去っていくものを「仕方ない」と横目で眺めるのはもうやめて、最初から興味のない素振りで、傷つくことを防ぐのももう終わりにして。窮屈な制服を脱ぎ捨てる時が来たら、その時こそ踏み出せる。この足を遥か彼方の場所に向けて。

(そうだ。あいつが待ってるっつーなら、どこまでも)

テマリたちが乗っているはずの飛行機が一気に加速を始めたのが見える。数秒もたたないうちに鈍重そうな機体はそっと地を離れた。広がる青空の奥に、ペイントされた水色がぐんぐんと吸い込まれていく。

目が痛くなる程に見つめ続けた水色も、やがて青の中に溶けた。
その後には、ほとんど天頂に届きそうな太陽が眩しい空に浮かんでいた。


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あとがき

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