サナギ






それは殻の奥で、留まることのない変化を続けている。





[サナギ]





シカマルは今日も分厚い本を持ってきた。あたしはいつからか、人目を忍んでではあるが平然とあいつを宿の部屋にあげていたし、茶のひとつもすすめるようになり、あいつはあいつで勝手に部屋の反対側に座り込んで本を読み出すような風景が自然になっていた。それは心地いい夕刻の休暇で、それ以上でもそれ以下でもないはずだった。ずっと。



繭にくるまれたような柔らかい時間。
誰にも見られずに、知られずに。
干渉されない空間の中で全てが止まっている、んだろうか。



任務に支障が出ない限りは、あたしは自由を保証されている。それでも他国の忍に身体を許そうと思えた理由はいったい何だったのか、理屈ではうまく説明できない。なにか起こった時には間諜の疑いがかけられたっておかしくないのだから。誰かに知られれば利用されるかもしれない。里そのものへの信頼さえも揺らぐ可能性がある。あまりにも対価が高過ぎる選択だ。

あたしもあいつも、理解していたはずだ。それくらいは。

けれど殻の中の閉じた空間が、そんな判断力を少しずつ弛緩させていったのかもしれない。麻酔のように、徐々に、静かに。

時おり短い会話を交わしながら、あたしたちの距離はすこしずつ接近していった。まるで無言の了解があったように、真ん中で落ち合う位置が最初から決定されているかのように。いつのまにか肩が触れるような距離で、二人とも壁に寄りかかる姿勢になって。真横を向けば奴の顔が目の前にくるのがわかっているので、あたしは本から目を上げない。それでもシカマルがページを繰る速度が随分と遅くなっていることくらいは気がついていた。

そっと、白いページの上で落ち着きなく動く指先を盗み見る。可愛い、と思う。
出方次第では流されてやってもいいと。本気で考えたのはその時が初めてだった。



知らぬ者ならば、本当にこう言うかもしれない。
「ああ、こいつの時間は止まっているんだな」
蛹はもちろん身じろぎもせず、無関心な視線をただ受け止める。



「抱いたって、あたしがあんたの物になるわけじゃないよ」

あたしがこっそり準備していた台詞を口にしたのは、男の指が唐突にーー避けようと思えば簡単に避けられる、そんなありきたりな唐突さでーーあたしの髪に触れた瞬間だ。「それでもいい」と言うだろうか。それとも「なら、いい」と諦めるか。突き放すような台詞の結末はどちらに転んだってあたしの心が傷つかないもので、そんなことを考えていた自分がいかに卑怯なのかと思う。

「……それくらい、わかんねー程……」

髪の間を梳く手を止めて、シカマルはすこしだけ嫌そうな表情を見せた。侮辱されたと思ったのか。

「いや」


 
あたしは目を男とあわせない。

「わかってない。あんたは子供だ、まだ」
「……やっぱあんたから見たら、そーなるんだよな」

ちっと年が上だからって偉そうに。そんな風に反論されるのを期待して、あたしはさらに残酷な言葉をすでに探している。シカマルはまだ手を止めたままだ。

本当は責め立てたかった。問いただしたかった。

(あんなに心地いい時間を、どうしてお前は)

澱むはずのなかった流れを、ぶつりと断ち切ってしまったこの男の指先を。それを知りながら止めようとしなかった、自分自身を。流される弱さを。

(これで終わりかもしれないのに)

だけどあたしは告げなくてはいけなかった。忍としての,砂隠れのくノ一としてのプライドはいつだって守られなければならなかったから。

「あたしはあんたじゃなくて」

外した額宛に刻まれた印を見せつけるようにして、告げた。

「こいつに所属してる。これからも所属し続ける。それだけは忘れるな」

シカマルは数秒だけ逡巡し、骨張った指先があたしの髪から離れる。それがお前の結論か、と一瞬だけ思う。けれど心中で小さなため息をつく暇もなく、そのまま感触はあたしの頬に移動した。くっ、と顎を軽く持ち上げられる。胸が鳴った。それでも、あたしはまだ男の目を見ない。目に入るのはあいつの口元だけ。

シカマルの唇が、

「…………わかった」

言葉のかたちに動いて。

そしてあたしは瞳を閉じる。視界をさえぎる瞼の向こうから、他人の体温が接近してくるのがはっきりと感じられた。

「テマリ」

そしてシカマルは、たぶん初めてあたしを名前で呼んだ。



夜の間に、蛹の中で何かが蠢く。



不器用なベッドだった。不器用な舌に、不器用な指先。
それでも今までにないくらい、あたしは濡れた。

「ふ、ぁ」

きつく結んだ唇から抑えている吐息が漏れだして、その度に全身に震えが走る。

あたしの中にシカマルが侵入してきた時に、ああ、こいつも男なんだってことを改めて実感した。だけど不思議と奪われているという屈辱感はなかった。

「テマリ」

また、名を呼ばれた。目を開けると、シカマルの漆黒の双眸があたしを覗き込んでいる。そこに淫らにあえぐ自分の姿を見いだすのが恐くて、あたしは距離感を失うほどの接近を求めた。誘うようにキスをねだる。シカマルが応える。経験の浅い子供の、ぎこちないキス。舌が深く差し込まれるのと同時に、あたしの上に乗っているシカマルの重さが増す。ぐっ、と身体を柔らかい布団の中に押し付けられて、あたしは逃げ場をなくす。

避妊具を隔ててではあるが繋がっている腰の部分は、不規則に、けれど柔らかく動き続けている。絡み合う舌とその部分だけが、異様に熱を帯びている。

「……テマ、リ」

耳朶を撫で、鼓膜に達する心地いい響き。求められるってこういうことなのか、と。あまりにも単純な事実を自分が今まで知りもしなかったことに、正直、驚きを感じた。それだけでもこの行為が充分すぎるほどの価値を有するということに。

だけど幾度も心をよぎるのは痛みのような不安だ。それはあたしを届きかけた絶頂から遠ざける。終わりが始まってしまったという予感が、もうひとつの波となってあたしを襲う。どこか悲しみに似たその感覚と、身体の奥からせり上がってくる純粋な充足感が肺のあたりで混じり、溶け合おうとしていた。

「シカマ……?」

感情の混合物。無理に吐き出そうとした瞬間に、唇がふさがれる。
とどまった感情を男の舌がえぐって、かきまぜて。

ああ、あたしは何処まで。

シカマルは程なく果てて、あたしは奴の頭をごく自然に胸の中に抱いた。
そして眠りに落ちた。つかの間でもいい。すべてを忘れようと願いながら。



……あたしが目を覚ました時、あいつはまだ静かに寝息を立てていた。窓の外を見れば夜明け前だ。街が覚醒するには早すぎるが、鳥がどこかで鳴いている。空はうすぼんやりと明るい。やや性急な夏の朝のしるし。

新しい朝の空気の中で、あたしは思い切り背筋を伸ばす。

そっと布団を抜け出して荷造りを始める。もともと早朝のうちに砂隠れへと出立する予定だ。風影に宛てた公文書もすでに準備されているだろう。そして夜勤明けの係があくびをかみ殺す事務室で出立の届けを出し、担当係官が門まで見送りに出る。決まりきった流れ。

「……んー……」

微かな物音に振り向けば、シカマルが寝返りを打ったところだった。普段の布団と違うからか,やや寝心地が悪そうに身をよじる。男がまだ眠りの中にいることを確認して、あたしは荷造りに戻る。この男が、数時間後にはあたしを見送る。いつも通り。いつも通り?ううん、もうそれはいつもと同じじゃない。

悲しくなるかと思ったけれど、そうでもない。
かといって嬉しいだとか、そんな感情とも縁遠い。

ただ、何かが決定的に変わってしまったという恐さが、あたしの底にあった。
きっと唇を噛んだまま、任務服を身につけていく。襟を正し、帯を締める。乱れた髪を結い直す。陽にあたってやや傷んだきゅっと縛ると、不思議な安堵感につつまれる。すべてを整えて安堵の息をついたあたしの背後で気配が動いた。

「……大事なもんだろ。忘れんなよ」

シカマルはいつの間にか身体を起こして、あたしに何かを差し出していた。

額宛て。ずっと枕の横に置かれていた、砂隠れの。

寝起きにキスのひとつもしてくるんじゃないか、経験から思わずそう考えたあたしは思わず身構える。右手を伸ばして、なんとなく警戒したままで額宛てを受け取った。何も起こらないことに安心したと同時に、奇妙な失望も感じる。シカマルは支度を整えたあたしのことをじっと見て、訝しげな表情を見せた。そして訊く。

「もう出るわけじゃないだろ?こんな早く」
「別に。ただ、いつでも出れるように支度しただけだ。眠くもないし」
「ならいいけど」

なにがいいんだろう。訊き返そうと思ったがやめた。多少不自然だが、ぎこちないわけでもないこの空気を壊したくなかったから。ただ布団からずり出した(たぶん下着くらいはつけているだろうが)上半身裸のままの男を直視するのが少しだけためらわれて、あたしはまた目をそらす。変だな、そんな光景はもう馴れきっていると思っていたけど。

「つーかオレのほうが帰んねぇとマズいよな」

そう誰ともなしに呟くと、シカマルはごそごそと服を探し出す。あたしは近くにあった上着を手渡してやる。奴は忍らしく手早く着衣を済ませると、扉のほうではなくて障子窓のほうへ向かった。少しだけ開き、念のためか外を確認する。早朝の光が飛び込んでくる。眩しそうに目を細めながら窓をくぐり抜け、けれど思い出したようにくるりとこちらを振り返って、言った。

「また借りにくるわ」
「は?」
「そいつから」

それだけ言い放って、シカマルはすぐに後ろ手に障子を閉めた。屋根を蹴って去っていくシルエット。あたしは額宛てを手にしたまま少しだけ考えて、やっとあいつの言葉の主語と目的語のありかに気がついた。鋼の板を握りしめる、冷たい感触。指でなぞる刻印。そうか、あたしを借り受けるとね。こいつから。

「…………身勝手な奴だ。高利貸しだったら、どうする気なんだ?」

思わず忍び笑いを漏らす。誰が見ているわけでもないが,控えめに。

数センチだけ開いたままの障子の隙間から、朝の光が忍び込んできた。そうだ、特に何も変わっていないような……いつもの、朝だ。そして明日も、その次も、またここに訪れる時も、こうやって同じ朝が始まる。あたしは同じ朝を迎えられるような、気がする。風変わりな夜の夢の後にでも、きっと、いつだって。

そう、戻る場所を忘れない限りは。







朝になって戻ってきたら、蛹の背が割れていた。



蛹はいつか変化することくらい誰でも知っているだろう?
抜け殻になった物体を見下ろして、誰かが嘲笑した。



笑ったのはあたし自身だったのかもしれない。
そして殻の中に閉じこもっていたのも。



時間は決して止まらない。
蛹が蝶へと姿を変え、羽ばたき、風に乗って飛んでいく。



確かに、蝶の命は概して短い。



けれど、美しい。







「おはよう」
「……よぉ」



隣に並んで、ずいぶん高くなった太陽を背に門へと向かう。はたから見たってまったく変わり映えのしない光景なんだろう。確かに何が大きく変わったというわけではないんだ。ちゃんと線さえ引けば。すこしだけ平行線の間は縮まって、だけど交わらない。それでいい。このままでいればまだ終わらない。あたしはいつまでも臆病で、この男はどこまでならあたしが逃げないのか知っていて。



「ふぁ……あ」
「眠そうだな?シャキっとしろ。他の里の人間を案内するときもその調子か?」
「まぁ、そーだな」
「そいつは、木の葉もずいぶんと人材不足なこったね」
「うっせ」



軽口をたたきながら進んでいくと、門が少しずつ近づいてくる。その時、あたしの視界の端をなにか鮮やかなものが横切った。



「あ」



黒い羽の上に、透明感のある翡翠のしるしが揺れる。



「蝶、だ」
「だな」



蝶はふわりとあたしたちを追い越していく。



「捕まえてやろっか?」



そんなに物欲しそうに見ていたんだろうか、シカマルがこちらを向いて言う。


「空飛んでるのに、簡単に捕まるもんじゃないだろ」
「んなこたねーよ」



シカマルは確かに自信たっぷりに笑った。








……捕まえ方さえ知ってりゃ、さ。



Top / Next →

あとがき

ライラさま10000打記念リクエスト、微裏で「サナギ」。
ライラさまのみお持ち帰り可です!