春なのに
「もう行くんだよな」
「ああ、夕方までには宿場町に着きたいから」
春の午後だった。桜はもう散っていた……いや、数枚、もう色あせた薄桃色がかろうじて枝の先にしがみついているのが見えるが。
それもいつまで保つだろうか。
長い冬が明けた。
そしてあたしの、木の葉の里を訪れる任務も……終わった。
中忍試験も外交任務も、あの桜の枝から新しい緑が芽吹くころには、他の中忍あたりの担当になっているだろう。それは上の決定であって、あたしがどうこういうような問題ではないのだ。
「今まで世話になった」
最後の見送り。門のちょうど真下で立ち止まったシカマルに、あたしは右手を伸ばす。シカマルは無言でその手を握った。一瞬だけぐっと力がこもったけれど、期待したよりずっと素早く、彼の手のひらはポケットの中に戻っていった。
不思議と執着はなかった。
いつかの情熱に反比例するかのように、こいつをあっさりと手放すことにも。
定期的に里を訪れる度に、この男との関係が熱を帯びていったのは嘘じゃない。
側にいることを欲し、何かを得ようと欲し、そして与えようと願った。
それでも知っていた。あたしたちは一度も……一度たりとも相手を所有したことなど、なかった。所有と思うことは違った概念なのだと、あたしはいつしか学んでいた。
もう出発の時刻だ。
「なあ」
それでも何となく、里の外へと向かって足を踏み出すことを躊躇していたあたしに向かって、シカマルが訊いてくる。
「オレって、あんたの何だったと思う?」
穏やかな目であたしを見る。
ああ、こいつも一緒だ。冷静な振る舞いの影で。ここまで歩いてくる道の間、あたしたちはずっと無言だった。過ごしてきた日々の記憶が、あたしたちの口を閉ざしていた。どんな言葉も陳腐に聞こえる気がして、それがこの別れの瞬間を陳腐にしてしまうことを恐れて、声は沈黙にその場所を譲っていた。
それでも訊かなければいけないと、知ってはいたのだ。
あたしは、シカマルの何だったのか。
シカマルは、あたしの何だったのか。
主体と客体が交換されただけの、それは等価な問いだ。
シカマルはあたしにそれを問うことで、同じ質問を自分に投げていた。
「……難しい質問だな」
仲間ではない。同じ故郷に縛られていないあたしたちは、どうしたって無条件の相互関係を手に入れられない。共有する土壌も、唄も、何もないあたしたちにとって、仲間という呼び方はあまりに自然発生的すぎて、どうしても矛盾を抱えてしまう。
恋人でもない。この里を訪れる度にこいつを求め、同じ時を過ごし、様々なことを語り合ったのは事実だけれど。過ごした夜の数が未来を束縛するとは限らないと、あたしたちは理解していたはずなのだから。
「あたしならたぶん、こう呼ぶけど……」
あたしはシカマルの瞳を覗き込んだ。昨夜、吐きだした息が届く距離で見つめた瞳と、それは同じ色で。
「戦友」
その黒檀の輝きは瞬きもせず、あたしの言葉を受けた。
「そか」
シカマルは唇の端を持ち上げて、笑った。ふっきれた笑顔だった。
戦友。
信頼と緊張感が、いつもあたしたちの関係を育ててきた。当たり前のように存在していたものではなかった。けれど取り替えのきくものでも、決してなかった。だけど……連れ添って生きていかないのだとしても、あたしたちは確かめたかった。お互いが唯一無二の相手なのだと。
あたしはそれを表現するために、戦友という言葉しか知らない。
それが何よりも前の方向を向いた言葉なのだと、そうシカマルが理解してくれる確信は、不思議なくらいしっかりとあたしの中に根を下ろしていた。
「あ。それとさ」
これでしなければいけないことは、全て済んだ。解放感があたしを包んだ。
あたしはゆっくりと身体を門の外へと向けながら、シカマルに言ってやる。
「まだ過去形じゃないと、思うよ。一応」
それを訊いたシカマルは「ヘッ」と笑って肩をすくめた。見慣れた仕草。
なんとなく視線が上に向かう。
シカマルの背は伸び、いつの間にかあたしを追い越していた。
この里を初めて訪れてから、春は幾度巡っただろう。
去年まで、春の桜は、来年のための約束だった。
だけど今、シカマルの頭上に伸びる桜。その枝が再び花を咲かせるかどうか、あたしはもう知らない。そんな曖昧なままではいたくなかった。
シカマルは同じ場所から動かない。あたしは足を踏み出す準備をしたまま、奴の顔を最後にもう一度だけ眺めた。それでも距離を縮めようとは思わなかったけど。
任務を続けていけば、いつかまた隣に並ぶかもしれない。この里を訪れる日があるかもしれない。その時、あたしたちはこの距離を保つだろう。1メートルの空間。いつまでも、これ以上踏み込んでいくことはない。それでも例えようのない安心感と信頼は、変わらずあたしたちを包むだろう。
もし戦場で対峙することがあるとしたら……きっと相手を倒すため、全力を尽くして戦う。あたしも、こいつも。そうできないのは冒涜になる。
それが本当に相手を認めるということなのだと、あたしは思う。
今選べる中で一番マシな選択肢だと、あたしは、信じる。
「……じゃあな、戦友」
動かないあたしの肩を押し出すように、シカマルが言った。
けれど、その両腕はもうあたしを抱きしめなかった。
それでいい。
そしてシカマルは、あたしに背中を向ける。
突然に風が吹いた。それは門のすぐ脇に立つ桜を揺らす。
枝先の最後の花びらも、とうとう散っていった。
シカマルの背が遠ざかる。その後ろ姿に、風に舞う花びらが重なる。
あたしがその景色を見つめていたのは、それでもたった数秒のこと。
「もう泣き虫くんじゃ、ないか」
その呟きは、あいつの耳に届くには頼りなさすぎたけれど、あたしの足を前に進ませるには十分な合図だった。あたしはそのまま街道の土を踏んだ。一歩を踏み出したら、身体は意外なほどに軽く感じられた。
そのままあたしは歩みを進めた。後ろを見ることなく。
だからシカマルが一度でもこちらを振り向いたかどうか、あたしがそれを知る術はない。
きっといつまでも忘れない、それは春の、日だった。
あとがき
もう線を引いたから。だから次は並んで歩こう。
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