SPACE SONIC






真新しい煙草のケースを開けた。
今まで見たことのない銘柄の色は、夏らしい銀色だった。

きつく詰まったケースから煙草を一本だけ取り出し、火をつけると
時たま発作のように襲ってくる、センチメンタルな感情に身を任せる。

あいつは私のこんな姿を見たら、笑うだろうか。哀れむだろうか。

静かで優しい目。煙草臭いキス。猫背気味の立ち方。器用な指先。
私の中にあんなにも簡単に忍び込む、低い声。

もう
私と一緒には、いない




[SPACE SONIC]





「昔の知り合いと飲んでくるよ」

会議も報告もすべて片をつけた、夜の9時。

部下の下忍は特にこれといった感情も見せず、
「わかりました」とだけ言って私を見送った。
何も、噂さえも知らない世代は勘ぐることもないのだろう。
確かにやましいことは何もないのだけれど。今は、もう。

木の葉隠れの里の夜は賑やかだ。
人通りの絶えない通りを歩けば、あちこちに知った顔がある。
最初はよそよそしかった住人たちも、いまやすっかり馴染みになった。
ラーメン屋の親父もまだ現役だが、前より随分と年をとったと思う。
ここを始めて訪れた時はまだ15で、すべてが今よりも大きく見えた。

「テマリさーん!」

居酒屋に脚を踏み入れた私に最初に気がついたのは、春野だった。
妙に嬉しそうな顔でこちらに手を振っている。私も軽く右手をあげて返答する。
円卓を囲む一同がいっせいに私を見た。いつかの中忍試験以来の顔ぶれだ。
黒髪をひとつに結んだ男は、壁側の席でいつも通りの仏頂面をしていた。
周りにすすめられるがままにその男の隣に席をとる。
いまだに外交関係の任務でしょっちゅう顔を付き合わせているのだし、
最も話しやすい相手の隣を空けてくれただけだろう。他意はないはずだ。

こんな風に、シカマルの隣に自然に座れるようになったのも悪くない。
以前なら妙に意識してしまい、人前ではあえて無関心を装っていただろうから。

「遅くなってすまない。仕事が終わらなくて」
「謝ることないわよー」
「わざわざ来てくれたんだもん。それだけで充分だよね」

やはりシカマルの周りに席をとっている山中と秋道がグラスを廻してくれる。
手を伸ばした時に、狭い円卓の下でシカマルと私の脚が服越しに触れ合った。
その体温に一瞬だけ身を固くしたけれど、シカマルのほうは意にも介さない。

「オレも件の書類が終わんなくて、さっき着いたばっか」

そうぼやくと、乾杯の合図にあわせて自分のグラスを掲げる。
到着してすぐ一服したんだろう。灰皿の吸い殻から煙が立ちのぼっていた。
側に置いてある箱は、見慣れない銀色のものだった。

「彼女は来てないのか?」
「今日は仕事仲間での集まりだから、あいつは呼んでねーよ」

1年程前に木の葉の里を公用で訪れた時、婚約者だと紹介された娘。
忍ではない、おとなしそうな黒髪の娘だ。シカマルらしいなと思う。
一緒に夕飯を食べて、彼女の気を悪くさせない程度に昔話を披露した。
20歳になったら籍入れるかな、とシカマルが呟いた。いい娘、だった。

不思議と嫉妬心は湧かなかったし、私にはその資格もないのだけれど。

「そういえばテマリさん、結婚するって本当?」

山中の無邪気な問いが助け舟だった。ああ、と頷いてみせる。
だって私は今、幸せなのだから。

「私が仕事ばかりして家にちっとも帰れないってのに、
それでもいいって言ってくれた変わった男だよ」

対等な位置を勝ち取ったのだと、どうにか教えてやることができる。
その安堵感が私の頬を緩ませて、ひょっとしたら、
私はとても、とても幸福そうに見えたのかもしれない。

「……幸せそうじゃん。よかったな」
「お前に負けてられないからな」

妙にさっぱりとした祝いの言葉とともに、シカマルは右拳を差し出す。
私は同じように左拳を固く握りしめて、彼の拳にこつんとぶつける。
光る指輪を少しだけ見せつけて、いつもの激励の合図が取り交わされた。

素直に嬉しく思う。
家族とも幼なじみとも違う、私だけの立ち位置がまだここにあることに。
たとえ新しい家族を得ても変わることはないのだと、再確認できたことに。




宴が終わるころ。
いつになくふらつく足取りで、私は宿に戻った。





夢の中でも、私は木の葉の宿の部屋にいた。
懐かしくもあり、現在進行形でもある空間だ。
南向きの、同じ部屋。同じ畳の匂い。
私がたった今、眠りの中でひとり横たわっている場所であり
……幾度となく、シカマルと身体を重ねた場所の匂いだった。

いつのまにか、シカマルが側に座っていた。
膝が触れるほどの近さで。

昨夜の、一瞬だけ感じた体温が蘇ってきて、私はシカマルの目を見た。
男も、私の瞳を覗き込んだ。
そしてためらうことなく、男は私を床に組み伏せた。

どうして。だめだ。ほしい。おまえに、触れたい。
私の中でひとつに絞りきれない感情が渦巻いた。

言葉はなかった。

今でも昨日のことのように思い出せる、男の唇。舌。指。息づかい。
男が私に触れるたびに、沸きあがってくる懐かしい感覚。

だけど戻れない。
戻って得られるものは、今、私達が見つけ出したもの、
これから見つけ出すものよりもずっと少ないのだと、
私達は知りすぎる程に知っているのだから。
だから戻らない。

言葉がないからこそ、私は期待した。
優し過ぎるくちづけと、愛撫。
この男も、私と同じ心境でいるのだと、そう切望した。
これが夢でしかないと知っているのに、願わずにいられなかった。



幻想はそこで途切れる。





夜明けの近い時間、目覚めた私は思わず隣へと指先を伸ばす。
何も捕まえられず空を切った手で、そのまま自分の肩を抱いた。

震えていなかったことに、いい知れない安堵を覚えた。





居酒屋の席で、手洗いに抜けた際にこっそり買っていた煙草。
円卓の隣に座っていたあいつと、同じ香りがする。
この自己憐憫のような、誰にも見せない行為を……なぜか止められないでいる。
意味のない行為だとわかっていながら、どうして繰り返してしまうのだろう?



あいつに会う度に。



あんなに嫌っていた煙草の香りを、胸一杯に吸い込む。
時たま、ほんの時たま。それは数ヶ月に一度あるかないか。
私は少しだけ自分の甘さを許してやる。
たった5分間だけ、もう戻らない時間に思いを馳せる。

小さな洗面台の前で、鏡に映る私自身の姿を眺めながら。


煙が目にしみる。


苦しいくらいに求めていた。
好きだとか愛しているという言葉が陳腐に聞こえるくらいに、
私は、刺激と安堵を与え続けてくれるあの男が欲しかったのだ。

否、欲しかった、という表現もどこか違っている。
きっと、失いたくなかったのだと思う。どんな形であれ。
この身体を満たし、心を時に休め、時には立ち上がらせる
シカマルの全てが必要なのだと、私の全てが憶えてしまったから。

だけど、それは過去の話。
取り戻す気もない、過去の物語だ。

たった1年でも体を許し合い、求め合ったからこそ縮まった距離は
いまは戦友という言葉にその身の置き所を見つけていた。
お互いの底まで踏み込んだからこそ得られた今の状況に、後悔はない。
互いの里に対する責任を日々、より強く負っていく私たち二人は、
これからも様々な悩みを、希望を語り合って切磋琢磨していくだろう。
そんな、始まることも終わることもない関係を正解だと思いたかった。

狡い、ひどく狡い安心感の中に逃げ込む。
勝負から降りた、私は狡く強く、そして弱い女。
刹那の、光のように一瞬だった交わりの切れ端を
今も大事にあたため続け、正当化し続ける……そんな人間だ。

「あんたは私の、大事な男だよ」

私はそう言って笑うだろう。余裕たっぷりに、いい女の笑顔で。
男女の友情が存在することを照明してやるといわんばかりに。
年上の私は、あいつに同じ台詞を言わせるのを許しはしないけれど、
頭の切れるシカマルのことだ。それくらい、きっとわかっている。

あいつは、そういう男だから。
認め合ってお互いに強くなろうと、私がそう決めた相手だから。



シンクの中に灰が落ちた。指先は同時に煙草の終端をはじいていた。
半分だけ燃えた吸い殻が、勢いよく流れる水に巻き込まれた。
ざざ、というかすかな音とともに、排水溝へと落ちていく。

痛みのような感情と一緒に。

物理的な痕跡は何も残っていない。
ただ苦い香りだけが、かすかに空気の中に漂っている。
それも朝の風に吹かれて、すぐに消えるだろう。









左手の薬指で光る指輪に、そっと唇を触れさせる。
里で待つ人の優しい笑顔を思い出しながら、私はゆっくりと蛇口を締めた。



<Not to be continued>



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あとがき

「Melancholynista」カエさま、旧ブログサイト10000打記念リクエスト「エルレガーデンのSPACE SONICで、片思いすれ違い」。片思いすれ違いとちょっとズレてしまいましたが…。
*カエさまのみお持ち帰り可です!